楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ちくわの嫁入り

賞味/消費期限間近のシュトレンを食べようとしたが、まぶされた砂糖が舌に痛くて一切れで断念した。舌が、おかしいのですよ。しびれのような、過敏な刺激を先端付近に感じる。ぽつぽつと小さなできものが数点ある。食事が楽しくないです。味もよくわからんし、痛いから。医師からは亜鉛欠乏症なのではないかと言われた。確かに、ここ数ヶ月間は、朝は惣菜パン、昼はコンビニで買う弁当/おにぎり/カップ麺、夜は牛丼の生活が続いていたから、栄養の偏りで体に何か異常が起きてもなんら不思議はないなと思っていたよ。栄養素の欠乏症って、不摂生を続けていてもすぐには発症しないけど、ひとたび発症すると習慣を改善してもこれまたすぐには回復しないのだそうだが、確かにそんな経過をたどっている。しかし、ゆっくり自分のことできそうな年末にこんな目に遭うとは、ついていない。

仮病胴体

※途中で書くのをやめたものも発表することにしてみる。書き終えたものと比べて重大な違いがあるように思えないので。

本は私たちの経験を拡張してくれる。そんな言説に触れて、高校生ぐらいの私は、馬鹿馬鹿しいと思っていました。拡張するまでもなく、経験すればよいではないか、と。言葉を通じて間接的に知るよりも、そのものを直接に経験することの方が、情報量が多いのだから、本など読んでいる暇があったら旅に出た方が合理的なのではないかと、心の中で反論していました。その反論じたいが見るからに思弁的なものであったことは、まぁ、まっさきに突っ込まれるべき点でしょうけど。それに、旅に出るという手段選びがまずミーハーですよね。見たことのないものを見るために旅に出る――そうはいっても、使い慣れた交通手段である電車を使うし、異なる地域に出てみたところで都市部のたたずまいなんてどこも同じようなものです。札幌も大阪も、トビリシも、大して変わりはしない。小売店や飲食店やドラッグストアや銀行があり、車がそこらじゅうを走っている。娯楽を含め、生きるために必要なものなんてのはどこ行っても同じですから、人間の住むところ、街並みがある程度似通ってくるのはなにも驚くべきことではない。言い換えれば、旅行に行ったとしてもそうした「うちと同じ」部分ばかり目に入るようでは、その意味は半減なのですよね。見る目がなければ経験から有意義な知を引き出すことはできない。いやむしろ、経験そのものの厚みがたいしたことないまま終わるんですよ。さっきから昔の自分に滔々と説教を垂れて、私は連休の最終日の夜に何をやっているのだろうと我に返りますが、経験から多くのものを引き出せるための目を養う手段が本であったりもするのですよね。
しかし、経験による知識 vs 本による知識という論題はアプリオリに決着のつくものではなく、というか二者択一で考える必要もないわけで、むしろ二者択一で考えていたことこそが当時の自分がはまっていた陥穽なのだろうと思いますが、

せんせい廃炉

超ひさしぶりに自炊した。2ヶ月ぶりぐらいか。作るのは相変わらずカレーです。「エチオピア」風、「アシュタサポテ」インスパイアカレー*1

自炊のいいところ。

  • 外食もしくは買い食い(特に、庶民向けのそれ)では出てこないか、もしくはわずかしか食べられない食材が食べられる。その顕著な系として、「野菜が食べられる」。
  • 野菜もそうなのだけどそれ以上に玄米ってうまいね。
  • 体が欲しているところのものを摂るから、そうでないものよりもおなかいっぱいになりにくい(ということだと思う)。山盛りにしても平気。
  • 最終的な出来映えをみるとお店で食べるよりも見劣りするが(料理の素人だから当然ですね)、素材のもつおいしさを噛みしめる機会がある。例えば豆を水で煮ただけの状態のものを、煮え具合をみるために口に入れて噛んだときの「ウマ!」というおどろきは、自分で作る者しか知らないだろう。
  • どんな店に入ろうか考えなくて済む。そこへ到達する道のりとかも考えなくてよくなる。

*1:いまどき個人サイトの名前を出すのも時代にそぐわない気がする。そのテキスト群が書かれた当時と比べてオンラインでの活動とオフラインの人格がより直接に結びつけられることが普通になったいま、「身元バレ」「本人特定」という言葉が今よりずっと切実な響きを帯びていた時代の産物に言及すること自体に曰わく言いがたい居心地の悪さを感じる。それはさておき、その名前に言及するに至った背景にはまずInternet Archiveが過去の個人コンテンツを削除し始めているというニュースがあり、それを受けて「過去ログを保存しておかねば」と思ったサイトが「アシュタサポテ」だった。カレーの話は2004年11月18日の日記にある。

劣情メンチカツ

日本酒を飲んでいるですけど、どう考えてもバシッと140字にまとめるのが(書き言葉の特質として推敲するということが許されることを勘案したとしても、編集窓が狭すぎます)困難というか、困難と考えたので、ブログに書いています。なにを。日本酒を飲んでいて、お酒を飲むとなにもできなくなる。むかしとある人が「飲み始めたので」という表現を使っていて、飲み始めることが何かの画期になることがあるものかねと訝しんだものだけれど、いまならその気持ちがわかる。飲めば飲んでいるなりの人間のふるまいしかできないし、しようとしてもし切れない。あたし我慢していたの。酒が入っても、ものを考えたり、本を読んだり普段と同じようにできると信じてきたの。でももう大人なのでね。強がっている時間はもうないのよ(TOMOVSKY「大人なので」)。今日は休日でした。めし食いに行って(入れなくて)、散歩して、バス乗って、めし食いに行って、本屋行って、散歩して、本屋行って、風呂入って、めい食いに行って、今日それだけだ。そして酒を飲んでいる。道楽だなと思う。なにを書きたかったのかはわからない。

性懲りもなくビヨンド

ほんと、疲れました。寝てました。朝は13時ごろに起きて、前日が忘年会だったのよ。それで終電まで飲んで(疲れているとの自覚にもかかわらず、飲むのは意外といけた)、帰宅して甘味とスナック菓子を食べて(飲んで帰った日はお菓子を食べている気がする)、眠りに落ちた。話は規定の線から逸れるが眠りはいい。もっと眠っていたいです・・・。30間近にもなってこんなにためにもならない文章を書き連ねるのはいかにもなんというか、ぴったりの言葉は見つからないけれどもこんなはずじゃなかったというか、その実は余計な見栄と羞恥心が身についただけのようにも見えるけれど。

一度目の目覚めが9時頃、二度目が13時前、頭を回転させるためにテレビをつけて、2日分の衣類を収めた洗濯機を回して、昨日の帰りがけに買っておいた惣菜パンと缶コーヒーを摂る。歯医者に行き、ふたたび帰宅して、ティーバッグのお茶を飲みながらのりしお味のポテトチップスを食べる。PCのモニタの電源が突然落ち、二度と立ち上がらなくなる。頭を掻きむしりながらケーブルを挿し直したり、電源ボタンをぱちりぱちり入れ切りしてみるが、わかっている、反応がない。それからの記憶はあいまいだ。今年のゴールデンウィークに購入したノートパソコンを出してきて、家計簿の記入にとりくむ(なんだかんだ、Googleスプレッドシートで家計簿をつけ始めて、もうすこしで1年経過する。そしてその節目は恋人と別れた時期に重なることに、ついつい思いを馳せてしまう。ようするに私はいまでも寂しいのだが、しかし他の人間とかかわることで家計簿がつけられなくなったり、好きなように睡眠がとれなかったり、本が読めなくなったり、ようするに一人でいる時間が確保できなくなるのはそれよりも耐えがたいことだった。確かに、そのような状況に落ち込んでしまうこと自体「人付き合いが下手」の一形態であって、恋人をもちながらたとえば読書時間を確保できている人だってめずらしくなくいるはずなのだが)。

一週間分の記入を終えて、続いては毎月の水道・ガス料金やら生命保険料、奨学金の払い込み作業に入る。そう思ったのだがどうにもだるくて明かりを落として、携帯でエロ音声を聞きながら横になっていた。

仕事が忙しい時期の休日は、その報われ方として「うまいカレーが食べたい」という夢にとらわれることがある。カレーを食べる活動もまた、恋人を失った(というより手放したのだが)あとに始めたテーマだった。独り身のときにできること。この身を最大限自由にできる時期にできること。東京近郊に住んでいる強みを活用してできること。それが当時の自分の場合はカレーの食べ歩きであったりした。まあ、カレーは昔から好きで、何か食うものの選択に困ればカレーを選んでいたような人間で、それをいっちょ深めてみようか、人に向かって提示することのできる「趣味」として確立してみようか、というのは愚かに思われるほど自然な発想だった。そういうこともあって、好きなカレーの店というのをいくつかもつに至った(といいつつ、足繁く通ったりはしないのだが)背景もあり、悲しみの果てに浮かんで消えるのが「うまいカレー」であったりする日も私にはある。

いや、そんな話に逸れていく前に何を話そうとしていたかといえば、うまいカレーを食べに街に繰り出す気力も私にはなく(都心に住んでいるわけではないので、まず電車で30分揺られなければならないことが今の私には都心の街並みをひどく遠いものに感じさせているのだ)、ござの上に寝てたら17時ぐらいになってて、「とりあえずめしは食って元気を出さねば」という知恵だけは生きていたもので、少し準備体操(隠語)をした後、近所のチェーン店のカレー屋に駆け込んでカツカレーを食した。もうとにかく体力が落ちていて、ゆっくりとしか食べられないし、半分くらいで満足感がきてしまう。そのくせ帰りにチョコレートと飲むヨーグルトを買ってしまう。帰宅してラジオをつけたまままた寝て、自分の寝息(いびき?声出てた?)が聞こえたり聞こえなかったりするまどろみ加減が心地よい。そしてまた目覚めて、休養はとれた感じがするけれども脳が目覚めてない気がしたのでお香を焚いて、洗濯物を少しずつ片付けたりしながらこの文章を書いている。時間感覚がまったくわからない。書き始めた頃は、ほんとにくだらなくて、無意味で、自分のふがいなさに向き合わされて、もうやめようと思うのだが、書き続けているとそれ自体どうでもよくなってくる。ただ言えるのは、ラジオにはほんとうに助けられている。疲れているとき、なにもないのも静寂が気になるので、なぐさめを求めるのだが、スマホをいじればそれが発する光は強すぎ、疲れを増幅させる。音楽をかけても、他のもの他のものと伝いたぐっていこうとしてしまう。選ぼうとすると、最適のものを選ぼうとして、いつまでも決まらない。聞き流すことも自由自在、耳を傾けても楽しめる柔軟性をもったラジオは、ほんとうに付き合いやすい相手だ。

もっと休み欲しいなー。

コルカタの週末

「朝の準備時間が数分短縮できる」という、生に対して実に後ろ向きな理由からひげを伸ばしている(伸びるがままにしていると言うべきか)。ひげを伸ばしてよかったことといえば、食事時に視界の中でそれがもひもひと動くのが面白いということぐらいだ。私はひげの量が少なくて、がんばって伸ばしたところで無精ひげ程度にしか成長しないので、みっともないので近々剃ってしまうつもりだ。