楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

恨み郡司

日記をあまり書いていなくって、ひとつには、なにも考えずキーボードに叩きつけるってことができなくなってて、それっていうのは、高校生の頃なんかは自分がいかに怠惰で勉強しないでやりたいことも見つけないかってことをどうどうめぐりに書いててよかったんだけど、今はそういうのが端的に言ってはずかしくて、りっぱな自分を見せたいのよね。それに同じこと繰り返しに書いててもコンテンツにならないし、コンテンツにならなくてはずかしいのでりっぱな自分を見せたい自分としてはそれをアップロードする気にはならないしアップロードする気にならないことがわかりきっているものを書こうとする手が動くわけはないのでした。まあ端的に考えが間違っているわけですが。

他者を探す旅が高まっている!と数日前のメモにありました。それが何を意味するのかは定かでない。というか、たまに人と一緒に過ごしたいという意味なのかもわからんすよね。「自分探し」が、しばしば具体的には「ちょっと一人になりたい」を意味するように。いや、しばしばそうなのかは知らないのだったが。

もうちょい、ちょっとずつ書くようにしていきたい。

渦・アコーディオン

たのしいことを探していた。やりたいことを探していた。「面白いことないかなぁ」って思っていたし、「なんか面白いことないかな」とツイッターに書きたい気分にもなった。今日は二度寝をした。二度目に悪夢を見た。だいたい必要以上に寝るとよくない夢かつまらない夢を見る。やることがことごとく裏目に出て、悪いほう悪いほうへ転がっていく夢。そんな夢を見たもので、起き抜けはひどく虚無的な気分になった。普段あまり感じない気分。あるものごとが、もう終わってしまったんだと悟って、それを惜しみつつもすっかり受け入れてしまうような。無力さ。たまにある「もうだめだ…」という、いわば世界全体、生全体に向けた感じではなく、具体的な何事かに対するはっきりした評価、が、降ってきた。そんな気分は、まあ、数分ほどしか持続しなくて、ほどなく未来に対する原型的な期待がまた浮上してきた。

寝坊をしたため、毎週の習慣にしようとしていたプールに行き損ねた。時間問題で言えば行き損ねることなかったんだけど、なかなか条件が整ってないと……なんて思って遠ざけてしまう。日曜日はたとえば午後6時までに帰宅することを考えると、移動時間を合わせて1時には出なきゃならないけど、2時には山下達郎のラジオがあるし……などと考えると午前中に済ませておかねばならない用事になってしまう。別にラジオを聴くかどうかは任意なんだけどなー。

それであきらめて、今日は勉強もしないことにして、アルバイトの求人とか、就職先候補とかネットで探していた。フロムエーとかの求人サイト見てると自分には合わなそうな仕事が……というよりは求人情報のノリだけで心が重くなってきますね。気分を変えて裏バイト情報 裏のアルバイトなんか見てみたり。このサイトのような情報探索スキルが欲しい。

夜にようやく詩を読む時間ができた。『八木重吉詩集』(思潮社)を読みなおし。初めに読んだとき、おどろきが多くて、いい詩人を見つけたなという気がした。今回読むと、わかったりわからなかったりという感じで……、おともに缶ビール飲んでたせいでもあるけど、最初の1作ではっとして、あとは低調な時間がつづいたかもしれない。でも一時間くらい続けるとはっとする瞬間が増えてきた。この著者は詩の中でやたら悲しい悲しい言ってるんだけどそれがいやみにならないというか、名指しで言うと中原中也みたいな自己陶酔が感じられないのが長所だと思う。って前も書いた気がする。なんかね、顔が素直そうだもんね……。

詩を読んでると詩を書いてみたくなる。読んでもほとんど分からないのに書いてみたくなる。分からないからあこがれてしまうのか。でも当然書くほうもどうすればいいのか皆目わからない。自分には詩のこころがないって思う。でもやってみたいなー。考えてみると、やりたいことは外に探さなくても手もとにあったわけで、こういう気分を自分は探していたんじゃないかと気づく。やりたいことを探していた自分は、探しているから見つからないことをさとった。カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに、ってフレーズの重さが、惑星の運行のようにめぐってきた。

割り箸呑気

文章をちゃんと読んでないことが多いんですよね。部分部分だけ拾って意味を読み取ろうとしてしまう。

↑いまのかたまりであれば、冒頭の「文章を」まで読んで「多い」に飛んで、あとざーっと飛ばして最後あたりの「意味を読み取ろう」あたりに着地する。そんで、「あれっ……どういう意味かな」とひとりで目を伏せる。

要するに読めてないんですよね。内容が頭に入ってない。しかも読めてないのをその場で自覚してる。だけどなかなかやめられない。

速く読みたいんですよね。水を注いだコップが置いてあったらパッと取って一気に飲んで次の水に移りたい。情報が氾濫する現代社会では、すばやく処理するスキルが求められてるといわれます。誰もが情報を発信できるようになった今、インターネットには重要な情報もあれば退屈な情報もある。

どうやら自分の見てるものが基本的に「退屈な情報」に属すると勘違いしているようだ。あるいは「これ、退屈な情報なのでは…?」という疑いを、あまりにも早くかけてしまう。(何を見るかは自分で取捨選択しているのに、ふしぎな結果だ。) 僕は急いでいる。退屈な情報にかまけて、重要な情報(古典文献とか…)に取り組む時間が喰われてはこまる。そういう意識は、正直に申して、あるな。

そういいつつもツイッターとか見ちゃうわけだ。そのうえ古典文献に取り組む時間が確保できてるわけでもない。行動のフレームを変える(ネットを見るのをやめる)のが難しいなら、せいぜいツイッターを真剣に読んだほうがいくぶん有意義だ。そうすればなにがほんとうにくだらなくて、なにが意味あるものなのか、わかるだろうし。

酢味噌鉄棒和え

2日連続で飲み会があって、いろんな人と顔を合わせるわけですけど、それはそれで楽しいし貴重な時間でもあるし結構酔っ払ってしまうのですけども、会が終わって最終的に一人になったときにはじめて満月が目に入る。「改めていいな」って思えるのはいつも「一人っていいな」のときであって、改めて「人といるっていいな」って思ったことはない。まあ単に改めないからかもしれないが。言ってみれば、一人のよさには〈あらためて性〉が備わってるってことなのか。

ビタミン階級

就職活動はお休み中で(行き詰まりともいう)、人間ヒマになるといろんな周りのことに気づける余裕ができますね。というか、ヒマじゃなくてもいいんで、いろんな周りのことに気づけるためには、心に余裕をもつとよい、ということで。具体的には散歩してて猫を見て、鳴かなかった猫の鳴き声と鳴かなかった僕の鳴きまねとを想像して、猫の声の音域より僕の音域のほうが広い?――僕の地声の低さで猫は鳴かない、というとこまで関心の鎖をつなげる、といったこと。

雨の日は長靴を履きます。作業服なんか売ってるような店で買った、長靴らしい長靴。周りの人に言わせると、お魚屋さんに見えるらしいです。(そっか!世の中にはおしゃれな長靴、長靴に見えない長靴というものがあるのか)

でも不思議なのは、雨の日に長靴を履かない人がいるということ。しかも多数派?というくらいいるということ。そりゃ長靴は暑いよ。通気性も悪いし。でもスニーカーが浸水して靴下までずぶ濡れる不快感を考えれば(それから私は肌が敏感なので雨に濡れるとかゆくなるのである)、長靴を履くことは僕にとってある克服と勝利を意味しているのです。

というか雨が降ってるなら長靴履くのは当たり前じゃねえ? むしろ唯一の正しい選択肢である、と思うのですが。ここで「正しい」ということのこころは、雨が降ったら雨を防ぐ措置を講ずるのが当然なのだとしたら、それは上半身だけでなく、足下にもその当然さが適用されてしかるべきではないのか、と。

この考え方自体は正しいと思っている。雨が降ってるなら長靴を履くのが唯一正しい選択だ、と。でもその考えが有効だったり人の行動を左右する力をもつのは、そもそも正しさってのが問題になる場面においてだけだ。言い換えると、「正しい」ってのは唯一絶対の裁定者なんかではなく、いろいろある価値のうちの一つだ、ってこと。(今日はこれが言いたかった)

さっき、「長靴を履く」ことを正当化する(=正しいとする)ために、雨の日に雨から身を守ることの正当性にうったえた。雨の日には傘を差して出かけるのが正しいふるまいだ。なぜなら、全身濡れたままで電車に乗ったり喫茶店に入っりしたら誰かが迷惑するからだ。迷惑するのはなぜかというと、基本的にはみんな濡れるのがやだからだ。自分の体とか、かばんとか、店のイスやテーブルがぬれるのがいやだから。その点、靴は濡れてもそうした迷惑をかける心配はまずない。濡れた靴が触れるのは地面であり、床だ。地面や床は濡れてもいい汚れてもいいとされてるから、濡れた靴で歩いてもかまわない。

あれ、じゃあ、「迷惑だから」という線で行くと、靴を濡らすのはべつに本人が気持ち悪いかどうかという問題でしかないことになる。確かにそうだ。僕だって「人に迷惑がかかるから、長靴を履きなさい」って誰かに指導したりはしない。長靴を履く理由を説明するときは、いつも「自分が気持ち悪いから」と言う。

じゃあ各々が勝手にすればいいことじゃないだろうか。いや、僕もそうだと思う。だから長靴を履くことは、モラルやマナーに属する問題ではない。それでも長靴を履くのが、なんつーか、こういっていいならば、大人ではないだろうか? だって、雨の日に靴の中びっちょびちょにして出勤するより、自分の足をきっちり雨から守って出勤するほうが、なんか、「大人」だって感じがしないだろうか。私の思う大人とはそういうやつだ。それでお魚屋さんみたいな長靴を履く必要はないけど、なんかほかのスマートな仕方で靴の中ぐっちょぐちょになるのを回避していてほしい。だって、靴下が濡れて気持ち悪いまま職場のパソコンに向かってExcelで作業して、そのうち自然に乾くのを待つとか、大人になっても俺ってそんなんなのだろうか……!

という意味で雨の日は長靴を履く(かそれに類する処置をする)のにはもっともな理由があると思うのですがどうでしょうか。そうやって意味を広げてみるとやってる人は実はけっこういる気がした。だいいちスーツにあわせる革靴って水に強いし。

ミサンガ仏頂面

月曜から土曜までbotになっていたのでそのことについて書いとかなきゃいけないですね。(?) Twitterで投稿するときに「これは投稿すべきかそうでないか」と迷うのがめんどくさくてやだなーとそのころ思っていたので、投稿するかどうかをその場の自分が決めない仕組みでやればいいのかと考えたわけです。それで、たまにある朝のゆううつにまかせて可決させちゃった。もうひとつ先に思いついた案として、「投稿ボタンを押したところでサイコロが振られる。奇数目だったらそのまま投稿され、偶数目だったら破棄される」てな仕組みを作りたいとも思ったのですが技術力がないのであきらめました。投稿するかどうかを自分の手から離すという趣旨はわかるが後ろ向きすぎるな。

もちろん、発言がTwitter上に投稿されるときの最終的な投稿ボタンを押すのが機械だと言うだけで、ツイートの内容は僕がその日に新しく考えていましたし、さらに言えばtwittbotのシステムにツイートを登録するときなんかに「これは口に出すべきだろうか」という考慮ははたらいてたわけですが、それは別にいいのです。結局わかったのは、botであるということは僕自身はTwitter上に存在してないってことでした。投稿されるのがすべて新しいtweetだとしても、結局Twitterのルールでは「投稿しているときのみその人は存在する」ということなんですねえ。Twitterのなかでプレゼンスを主張しなかったかわりにネタ職人的にはなれた気がします。職人というとおおげさですが。1日に投稿できる上限も決まっていたし、ツイートはそれが投稿される前日の夜にまとめて蓄積していたので、自分が単に何を言いたいのか、何を言うべきかって点に集中できたかもしれない。

もちろんその場で言いたいことがらってのもあって、そうした言いたい気持ちは飲み込まなきゃいけない。でもそれって「おなかすいた」とか「ねむい」とかそういうたぐいのもので、たしかにそういうことを言い続けるのも大事かなとは思うのですが、でも単に「言いたいことをその場で言う」こと、「言いたいことをいつでも言いたくなったときに言う」こと、つまり言いたいという単なる欲望を満たすこと自体はそんなに重要じゃないかなとも思いました。それよりは、言いたいことを言うべき時に言うこと、今しか言えないことをのがさず言うこと、そういう構えでいたほうがイイんじゃないかな、とこれは今思い返していて思いました。