楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

吸引ナムル

10時に目覚め。Twitterのタイムラインを遡ったりしてしばらくごろごろしたあと、突然に起きる。起き上がるときはいつも自分で選択して自分の意志で起きるというよりは、自分のあずかり知らぬところで意志そのものが発動して起きてしまうという感じ。起きようと思ってその目的を果たすために自分の体を起こさしめるんじゃなくて、ただ唐突に体ががばっと起きる。

身支度をひととおりすまして、午前中はベジタリアンレシピをweb上で探していた。けっこうよさげな資料が出る。昨日大きい本屋さんでレシピ本を探したんだけどコーナーどころかベジタリアンの仕切り板すらないのな。「健康食」の仕切りはあったけどその中にもベジタリアン本はなし。日本での定着のしてなさ、なのかな。ベジタリアンって思想色が濃いので、日本で広がらないのはなんとなくわかる。どこが思想的なのかというと、「動物の肉を食べない」っていう、否定から入ってるからだ。いくら健康法だって言ってみても、そこには思想があるんでしょ?という疑いがつきまとう。思想で悪いかっていえばそのこと自身は悪くないんだろうけど、やはり日本だと……(以下略)。とにかくベジタリアンだって言うと別に大した迷惑をかけるわけでもないのに周りの人が「肉も必要なんだよ」とか「植物だって生きてるじゃないか」とか言葉をかけて逆改宗させようとするみたいですが、そういう、ベジタリアニズムを実践してる人が自分から何かを主張してないのに周囲が勝手に論争的になっていくってのが、ベジタリアニズムそれ自身が思想性を帯びてることの証拠だなと思う。いや、僕自身の所感としてはたんにそういうのめんどいのすが、そうした現象自体は興味深いというか、さいきん思想とか思想性というタームが気になってるのでかこつけて書いてみた。

午後から外出。定期を忘れて電車を使えず、最寄り駅付近で用を足すというよりは時間を潰すことに。何年か前だったら用事が果たせないならそのままUターンして帰る、という「合理的」な判断を下していたんだろうけど、もう暑くて……というのは今日の判断だけど、一般的な傾向としてことが徒労になるのをなるべく避けようとしているようには見える。なんにもないところにどうでもいいものを注ぎ込んでそれを充実と呼ぶのかい?というのが数年前の僕の言い分なのだけど……でも、結局は、徒労感が人をつかれさせてしまう力はばかにならない、ということなんだろうな。徒労を恐れるのは不合理だという自分から、徒労を恐れるのは合理的だという判断になったわけだ。

しかしそれで最寄り駅付近に古本屋があることに気づかされたのだから、これは儲け分だといえる。わたし長らく新刊主義だったというか、文献の名前を出すときにそれが現在どこでも手に入るようなものじゃないとだめだろう、本屋さんとかアマゾンで買えるような、誰でも平等に手に入れられる文献に基づいて生活をカスタマイズしていくべきだという思想をもっていたので、古本屋での本との出会いとか二の次だと思っていたのですが、最近古本屋再評価傾向です。新刊書店に並んでる本って時代の流れを反映していて、テーマの流行りもあるし、同じ内容を語るにしても切り口が違ったり、フォントが違ったり。人類が問題にしてることなんて昔からほとんど変わってないって状況が一方ではありつつ、それをパッケージングする仕方がどうしようもなく「今っぽさ」にひたされたものだと感じられて、そんなの表層の違いでしかないといえばそうなんですがね。その点古本屋行くと雰囲気が違って気分転換になっていいですよ、という話になるのかな。私たちは思ってるよりも「今風」に染まっている。

なんだかポイントポイントで話が長くなる。夜に家族で肉をたくさん食べたら消化不良を起こしました。消化不良ってこれで使い方合ってるんだっけ。

苔三銃士

アミューズメント的なことを近頃やってなかったんだけども今日はボートを漕いできた。3月ぐらいから思ってたんだけど夏休みでヒマになって、ようやく。アヒルボートではなく手漕ぎのローボートというやつ。

余談だけど乗り場のある公園まで定期圏内の駅から徒歩30分だとGoogleが教えてくれたので「30分なら・・・」と思って歩いたんだけど、道を間違えて遠回りで結局1時間近くかかってしまいました。暑かったしすぐのど渇くし雪駄だったのでよけいに疲れるし、後悔。暑い日にむやみやたらと歩こうとするもんじゃない。到着するとまず、自販機でキリンメッツを落としてベンチで休憩した。アンダーシャツの前のほうが汗でびたびた。

乗るときに「初めてなんですけど」と係員の人にレクチャーを請うたら、何か教えてくれたんだけど僕の物わかりが悪いので(これは実際悪いので)聞き返したりしてたらわかんないのかみたいな態度になってすこし残念な気持ちになった。あと人前だとぎこちないので、一人でやってみると要領はすぐにつかめてある程度は自由に動けても最後にボート返すときに係員の人に近づいていくととたんに、オールをどう動かしたらボートがどう動くのかとかわかんなくなったりした。

自分の手より一回り二回りぐらい大きいオールで水をかくわけだから当たり前だけど、けっこう体力は使う。ボート部がハードなのっていまいち想像にぴったりこなかったけど、よくわかった。水の抵抗が大きくて、そのぶんよく進むんだけど。ただ最後までまっすぐは進めなかったな。左右均等に動かしてないので、ゆるくカーブがかかった進み方になる。慣れないので左手親指の付け根あたりの皮がむけた。不覚。普段暮らしてて手の皮がむけないように注意する機会ないもんな(僕の暮らしぶりだと)。

あと、ボートを降りてもしばらくは波に揺られてる感覚が残るとかね。甘さとか五感のことがよみがえるってのはわかりやすいけど、揺れの感覚もまた単なる概念的な記憶でなくどうみても感覚としてよみがえってくる。感覚が5つに分けられるってのはたんに感覚器官との対応で感覚を考えたときに生じるドグマなんだろうな。

体力も使うしふたたびやはり暑かったので、駅のホームでバナナオレを買って飲んだ。運動後には甘さがしみる。公園まで来てボート漕いだだけだけどだいぶ疲れてしまって、家に帰ってゆっくり休んだ。普段より水がほしくなる日だったな。これから本格的に暑くなるのか。

窒素の素揚げ

7時ごろ一次起床、11時ごろ本起床。7時に起きてあさいちでプールに行くつもりだったのに二度寝をする。眠気に負けたというかなんか、反省してみると、実は寝る前から寝過ごすつもりでいたような気もする。7時に起きて朝一でプールに行くと決めていながら、でもほんとは寝坊して一日家で過ごしちゃうんだけどネ、というとこまで織り込み済みで明日を予想していたような、そんな気もしてくる。うまくいかないときはあらかじめうまくいかないと思っているのであって、その予想が実現するためにうまくいかなくなるように自分を仕向けているのだ……心理学でなんというのか忘れたけどあるそうです。
手と顔を洗ってはじめに口にしたのは昨日作っておいた水ようかんで、一日のはじめに甘ったるいようかんを口にすれば傷口にしみるような甘さに感じ入ることができるだろうと、はじめから泥酔を目指してお酒を飲むひとみたいに考えていたわけですが、手作りのようかんは砂糖を抜いたため(だって100gとか多すぎるよ……)ほんのりよい甘さで、飲み物がなくてもいけるくらいでした。
そのあとトーストを焼いて食べ、とりあえずパソコンをつけた。ラジオをつけて、昨日届いたAronsonのGeorgian: A Reading Grammarを読み進める。充実した情報源となっており、淡々とした書きぶりながら愉しい。このくらいのつつましさが自分の美意識にも見合っていて、心地よい時間だった。つつましいと言いつつ贅沢だよな、きっと。というかつつましさ自体が贅沢となりつつあるのか?もはや。
山下達郎のラジオを聴きながらAronsonをさらに読み進める。器用にできてないので山下達郎のしゃべりも半分くらいは聞こえてない、Aronsonも内容はわかるけど細部とか前後を踏まえてる具合が落ちる。でもまあ読めてはいたので継続した。
なんか、ツイッターはチェックしつつ。
一段落ついたので日課のテキスト訳読をはじめた。じゃなかった、より詳しく書けば、Aronsonが一段落ついたので本を閉じてわきに置いたところ、手持ち無沙汰になって「やることがない!」と焦りはじめ、すきまを埋めるようにテキストを手にとって訳読をはじめた。たまに空白がこわくなる。空白のほうが多い人生な気がするんだけどな、ほんとは。
訳読が思うように進まず、きちんと理解するには時間をかけなきゃいけないのだが、なかなか理解が進まないので、焦っていらいらして雑になる。訳出が雑になると脈絡も見えなくて内容がまた遠ざかる。これで疲弊した。すべての心配を捨ててじっくり向き合わなきゃならない、そのためにはとにかく時間を費やすしかない。んだけど。
もうぜんぜん家の中で腐っていく気でいたが、5時頃、散歩には出ようという気を起こす。結局どれもこれも気分だ。戦略などなにもない。でもそれでまずいのは、気分で起こせるだけの行動とは準備のいらない行動のことであるから、その方針だとおのずと起こせる行動が狭まるということで……、今日は教訓バナが多いですね。外出ようと思ったら雨が降り出した。
疲れて関口存男『関口・新ドイツ語の基礎』に逃避。ドイツ語はそもそも大学入ったときに第二外国語でとって以来のつきあいなので、大半が既知の事柄で、理解するのに負担が小さいものを読んでいたら、不思議と心が軽くなった。気が塞いでいたのはずっと気がかりなあの意思疎通のことだけじゃなくて、今日の訳読で疲弊していたのか。
心が重かった時分は心に何を抱えていて、心が軽くなったときには抱えていた何かはどこに消えていくのだろうか。比喩の過剰適用かな。
話は朝のプールに戻って。寝坊したところで昼から行くことはできた。しかし昼は込んでいるのではないか、しかも夏休みだし、そう思うと心が遠のいてしまう。実際に行ってみないとどんな具合かは、人生経験の乏しい僕には想像しがたいし、ただ一般的な傾向として、条件がきれいに整ってないと動きたくないところがあって、ほんとは条件が少しは整ってるくらいで動いてもなんとかなるんだろうけど、それを体感としては知っていながら、条件がきれいに整ってないとダメって命令する中枢があって、結果としてがまんしなくていいところでがまんをしている例がたくさんあるようだ。それはもうたくさんあって、僕の性格の一部といってもいいくらいなのだろう。
あ、また暗い感じで終わってしまう。でも他に書くこと思いつかないのでおわり。

沖合シュマルカルデン

シュールなひもを抱えたhold me tightが巨大なゴキブリみたいに夜の電線を伝ってく。一番下の階に取り残された彼にできるのは誰もいないオフィスに浅漬けみたいなFAXを送り続けることだけ。茄子のへたを取り除く仕事に飽き果てて勤め先のトイレに少年ジャンプを流したあの日、ゼリーにひたされてうるんだ太陽のようなみかんの皮を剥けば、コップにたわむれるミントの葉脈の中まで見渡せるのだった。グラウンドの砂埃をいっぱいに吸い込んで、たばこをくわえたまま後頭部からまっすぐに倒れた膝の上でケセランパサランにくすぐられる地獄のようなゆりかごが待っている。小皿に練りわさびをちょこんと添えるときの一瞬の緊張を湯葉で巻いて食べる談笑の席。駅のホームを裏返した行き場のない空間のそでで、ゲームボーイをしている子供の僕がいた。

 

・・・詩を書けば何かがわかると思って10分くらいでなにかこしらえてみましたが、わかるのは浅漬けみたいなことがらばかりで、もっとテーマを絞って書き始めねばなりません。

恨み郡司

日記をあまり書いていなくって、ひとつには、なにも考えずキーボードに叩きつけるってことができなくなってて、それっていうのは、高校生の頃なんかは自分がいかに怠惰で勉強しないでやりたいことも見つけないかってことをどうどうめぐりに書いててよかったんだけど、今はそういうのが端的に言ってはずかしくて、りっぱな自分を見せたいのよね。それに同じこと繰り返しに書いててもコンテンツにならないし、コンテンツにならなくてはずかしいのでりっぱな自分を見せたい自分としてはそれをアップロードする気にはならないしアップロードする気にならないことがわかりきっているものを書こうとする手が動くわけはないのでした。まあ端的に考えが間違っているわけですが。

他者を探す旅が高まっている!と数日前のメモにありました。それが何を意味するのかは定かでない。というか、たまに人と一緒に過ごしたいという意味なのかもわからんすよね。「自分探し」が、しばしば具体的には「ちょっと一人になりたい」を意味するように。いや、しばしばそうなのかは知らないのだったが。

もうちょい、ちょっとずつ書くようにしていきたい。

渦・アコーディオン

たのしいことを探していた。やりたいことを探していた。「面白いことないかなぁ」って思っていたし、「なんか面白いことないかな」とツイッターに書きたい気分にもなった。今日は二度寝をした。二度目に悪夢を見た。だいたい必要以上に寝るとよくない夢かつまらない夢を見る。やることがことごとく裏目に出て、悪いほう悪いほうへ転がっていく夢。そんな夢を見たもので、起き抜けはひどく虚無的な気分になった。普段あまり感じない気分。あるものごとが、もう終わってしまったんだと悟って、それを惜しみつつもすっかり受け入れてしまうような。無力さ。たまにある「もうだめだ…」という、いわば世界全体、生全体に向けた感じではなく、具体的な何事かに対するはっきりした評価、が、降ってきた。そんな気分は、まあ、数分ほどしか持続しなくて、ほどなく未来に対する原型的な期待がまた浮上してきた。

寝坊をしたため、毎週の習慣にしようとしていたプールに行き損ねた。時間問題で言えば行き損ねることなかったんだけど、なかなか条件が整ってないと……なんて思って遠ざけてしまう。日曜日はたとえば午後6時までに帰宅することを考えると、移動時間を合わせて1時には出なきゃならないけど、2時には山下達郎のラジオがあるし……などと考えると午前中に済ませておかねばならない用事になってしまう。別にラジオを聴くかどうかは任意なんだけどなー。

それであきらめて、今日は勉強もしないことにして、アルバイトの求人とか、就職先候補とかネットで探していた。フロムエーとかの求人サイト見てると自分には合わなそうな仕事が……というよりは求人情報のノリだけで心が重くなってきますね。気分を変えて裏バイト情報 裏のアルバイトなんか見てみたり。このサイトのような情報探索スキルが欲しい。

夜にようやく詩を読む時間ができた。『八木重吉詩集』(思潮社)を読みなおし。初めに読んだとき、おどろきが多くて、いい詩人を見つけたなという気がした。今回読むと、わかったりわからなかったりという感じで……、おともに缶ビール飲んでたせいでもあるけど、最初の1作ではっとして、あとは低調な時間がつづいたかもしれない。でも一時間くらい続けるとはっとする瞬間が増えてきた。この著者は詩の中でやたら悲しい悲しい言ってるんだけどそれがいやみにならないというか、名指しで言うと中原中也みたいな自己陶酔が感じられないのが長所だと思う。って前も書いた気がする。なんかね、顔が素直そうだもんね……。

詩を読んでると詩を書いてみたくなる。読んでもほとんど分からないのに書いてみたくなる。分からないからあこがれてしまうのか。でも当然書くほうもどうすればいいのか皆目わからない。自分には詩のこころがないって思う。でもやってみたいなー。考えてみると、やりたいことは外に探さなくても手もとにあったわけで、こういう気分を自分は探していたんじゃないかと気づく。やりたいことを探していた自分は、探しているから見つからないことをさとった。カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに、ってフレーズの重さが、惑星の運行のようにめぐってきた。