楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

12人の(わけもわからず)怒れる男

タイトルの元ネタは未視聴。

昨日の夜はTwitterで目にしたある発言に怒っていたのだが、しかし反省してみると、自分がなぜ怒っているのかがよくわからない。普段生きててあんまり怒りとか感じないタイプなんだけど、それはまあ環境のせいであって、怒るときは怒る。そしてそれはだいたい似たようなシチュエーションだなという印象がある。だから無軌道にランダムに怒ってるわけではない(そうだったら怖い)。けど、その要素って何だ?と思ってみると、うまく挙げることができない。

怒ってる時の場合の一つは、誰かが間違ったことを言ってるとき。もちろん人は間違ったことをどんどん言う。それは構わないのだと思っている。間違ったことでもどんどん言ったほうがいい。僕もなるべくそうしたい。だから単に発言が間違っていること自体が許せないのではない。「甲府は政令指定都市で〜」と聞いても「えー」と思うだけだ。それに対して、「人のためだといっても結局ぜんぶ自分のためにやっていて〜」と聞くとちょっと許せないかも。なんかシニカルなのが嫌いなのかもしれない。その考えはある意味では正しいけど、それが事実のすべてではない。

事柄にいちいち自意識を介在させようというのがいやなのかもしれないな。自意識というか反省というか。それに反省は正当化へと向かう。自己正当化。でも正当化なんてなくても行為できるのだ。また、正当化が一歩ずれると言い訳になる。めんどくさいよ。まあもちろん自分がよくやる/やっていた手口だからこう過敏に反応するのだけど。ついでに言えば、事実からいちいち深そうな意味を引き出さなきゃ気がすまない人とか、どういう欲望をもつかでおのれのセンスを発揮しようとする欲望のソムリエみたいのがけっこう嫌いです。事実は事実のままでいーじゃん。

正当化という点で言えば、相対主義がいまは最悪だなと思っていて、ものの感じ方考え方は人によって違っていて、それ自体は歓迎すべきことだなと思うけど、それによって自分の感じ方考え方が絶対的にプロテクトされることにはならない。自分の考えを自由に述べてよいというのと、自分の考えに誰も口出ししてはならないというのとは、違う。相対主義はそういうさみしい態度を呼び寄せる。ま、実際問題、自分に対して意見してくる人が好意的でためになるものかといえば必ずしもだし、むしろくだらない口出ししてくる人が少なくない。そういう人が周りに多いと、相対主義を持ちだして虫除けスプレーにしたくなるのかもしれないけど。でもそこで相対主義出すとあまりよい未来が待ってない気がするな。

怒りと似たような感情で、いらだちも、その理由がいまいちわからない場合が多い。近頃けっこうイライラしてしまうのですが、たとえば貧乏揺すりを見ていらいらするのって何故だろう。いらいらは伝染する、そのせいではないかな。いらいらしてる人の声を聞くとこっちまでいらいらしてくる。これと同様にして、貧乏ゆすりとはいらだちとか、なんらかのストレスの表れで、それを感じ取って自分もいらいらしてしまうんだ、って説明することができる。なんだこのイライラシステム。こうして世界中にイライラが満ち満ちて、その先はどうなるのか。というか実際はそうなってない(ように見える)のはなぜなのか。