楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

デジタルカメラを買いまして、写真の練習しに行くかとカメラ持って外に飛び出したんですけど、なんかばつがわるくて、持ってはいけないものを持って歩いてるような、小さい頃に夜更かししたような、へんな静かな興奮と動揺があって、たとえるなら万引きした後の気持ちってこんな感じなのだろうかと想像して、なにか身に余るものを・分不相応なものを身につけているような気分になった。まあそれなりに高かったので。

それだけじゃない。被写体にカメラを向けるということは、これはもう逃れようもなく「写真を撮る」という行為をばばんと打ち出してしまってるわけで、どう控えめに見てもそのとき自分は傍観者というより能動的になにかをなすものだ。いや写真を撮るということの一環には見ることが含まれており、写真を撮る者はそれゆえ傍観者だと考えることも一応できる。だけどファインダーを覗き込みカメラを構えて、どっからどう見てもこれから写真を撮るというかたちを示したうえで、それでもなお「なにもしてない傍観者」を決め込むなんて、無理がある。

いやおおげさだ。写真とってる人ぐらいどこにだっているし。それを見て「写真とってるなー」くらいは思うだろうが、それだけだ。何を恐れているんだろう。そういうふうに考えれば、困ったことは何もないように思えてくる。

僕はほんとは誰でもありたくないんだ。誰にも注意を向けられずに背景の裏を散歩していたい。部屋の隅を停止したまま終わりたい。あるいはスライドして、僕はほんとは価値がない人間なんだ。金を出して何かを楽しんだり、人からなにか奪ってまで自分の目的を果たしたりなど、するように定められていない人間なんだ。こう書き出してみると、いかにも心理学的病理という感じ。病気と診断して治療にあたるもよし、煮てよし焼いてよし逆上がりでさかさま世界。ま、そういう性向といっちょつきあってみるために導入したのがこのカメラだってのも事実の一端なので、文句はいいませんけど(?)。

しかしまあ自分の状況とからめてモノを語るのは……。悪くないけど子供っぽい感じもするね。読み手にとってどう見えてるかはわからないけど。