楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

2013.9.9 奥多摩遠足日記

休み中、帰省を除けばどこにも遠出していなくて、遠出しようか、したいな、と思いながらも腰が重くて家と学校を結ぶラインの上でひたすら過ごしていた。振り返ればよくもまあそんな退屈な生活ができるなあと我ながら思ったりもするのだが、実際送れてしまうのだから仕方ない。昔からそうだから抵抗がない。とはいっても、ほんとに退屈に感じているかといえば退屈ではないし、観光地にこそ見るべきものがあるという見方に僕は全然賛成ではないのである。まあ毎日おもしろおかしく過ごせたわけでもないが、しかし旅先にこそおもしろおかしい人生が保存されてるという見方に僕は全然賛成ではないのである。だってやりきれないじゃん。いやまあ、なんというかまあ。近所を散歩してて目が覚める発見をすることだってあるよね。ホントさぁ。そうでなきゃ僕の日記がいつも一定の長さをもってるはずがないのである。

だから、遠出なんかしなくても僕の生活はそれなりにおもしろいのですけど、だからといって「遠出なんてしなくても十分おもしろく暮らせてるもんねー」と舌を出すのは典型的なすっぱい葡萄のふるまいであるし、実際そういう理由をつけてお金と人生を節約してる部分もある。心はいつでもひきこもりさ。だから大事なのは、重い腰を上げて「行こうか」と決心せしめるだけの心理的動揺に、この狭い行動範囲でどうにか出会えることですよね。今回のばあい、先週あたりに妙にさみしいと感じる数日間があって、それは心の風邪のようなものであって特別のゆえはないと思うんですけど、それに加えて未来に目を向けることで漠然とした不安に包まれて(「自分はこのままでいいのか」的な)、しかもその未来は比較的さしせまっているためにガムのように靴の裏にくっついて僕をおびやかし続けるのでありました。一文が長すぎて係り結び考えるのをやめた。まあ結局精神的にいくらか弱っていて、そこから思考がつながって「大阪でも行くか」って決心したのが一週間くらい前。それから物理的社会的事情がからんで比較的近場の奥多摩に目的地が変わった。だから結局、人生の悩みみたいなものが僕を遠足に駆り立てるのではあったりする。まあなに、遠出したからってべつに答えが出たり、見方がガラッと変わったりするじゃないんですが、どんな出来事だって日常に少しの変化をもたらすだけなんですが、でもわれわれ、その少しの変化のために、金を出したり時間を使ったり、計画を立てたり走り回ったりするよね。それでいいんだわね。

遠足に計画はつきものだと思いますが、計画を立てたのはじつは失敗だったとも思う。計画というか、奥多摩に来たら何と何を見て、どこどこで何を食べて、という目標をどんどこ立てるべきではなかったな、と。なんだかスケジュールを着々と消化してるサラリーマンみたくなってしまった。月並みな話だが、「あまりのんびりできなかった」部分がある。いや1時間くらいバスを待ったり、30分くらいバス停まで歩いたりしておきながら「のんびりできなかった」という感想が出るのも不思議ですが、バスの時間にさえしばられずに行動できるくらいのあれがあってもよかったな、自由が。いやバスに乗れないと(あるいは車がないと)どこへも行けないような場所だったけど、それでも。極端な話、駅前を数十分歩きまわって、温泉にでも入って帰る、みたいのでもよかったはず。予定に縛られない、いくら寄り道してもいいようにしたかった。そのためにはむしろ計画を綿密に立てておいて、現地で考えなくても済むようにすべきなのかもしれない。ま、このへんは「遠足はどうあるべきか」というより「自分はどういう遠足がしたいか」にかかわる話ってことで。

見に行くものをふたつ考えていて、ひとつが奥多摩湖、もうひとつが日原鍾乳洞だった。じつは駅に到着した時点ですでに予定が狂っていてあちゃーって感じだった。印刷してきた時刻表を見ながら考えていると、目の前の奥多摩湖方面のバスが出そうになったので、飛び乗ってしまう。バスの中で予定を軽く立てなおす。

多摩湖停留所のすぐ近くに展示施設があり、その中のレストラン?食堂の中間みたいなところでカツカレーを食べた。これが新聞の記事になっていたほどでかいカレー。ふつうの2倍ほどある。食べながら思わずコストパフォーマンスなる概念について考えてしまった。コストパフォーマンスは、カジュアルには物に付属する「価値」であるかのように語られているが、たとえば同じ量同じ味のカレーがあって、値段だけが違う場合、コストパフォーマンスが異なるから、ふたつのカレーは異なる価値を持つことになるんだろうか? これは直感に反する気がする。カレーの価値ではなく、なにか別の要素だと言いたくなる。……一人で来るとこんなこと考えてしまう。いかんな。遠足なのに日常みたいだ。と感じて、自分は遠足に非日常を求めていることが露呈した。

もう屋外のほうが涼しかった。なんかさっきからずっと後ろ向きぎみの記述が続いているが、奥多摩湖はとてもよかった。なんてったってでかい。あんなでかいものを見れただけでも今回の遠足は意味があった。スケールだ。山はオブジェクトとして私たちはそれを見るのと同時に、山の中にすっぽり包摂されて生きている。すっぽりという擬態語を使うには大きすぎるな。「そこにある」何ものかではなく、山は「そこ」なのだ。すこしだけ、登っていった。展望台があると表示があったので、その矢印に導かれて。人がたまにしか通らなそうな、草の生えた斜面を1キロ、息切れして動悸がして足並みが乱れ、汗でシャツを濡らしながら進んでいく。もうそろそろだろうと思うと「1.6キロ先」という表示に出会う。実はさっきからトイレに行きたくてお腹が痛くなっていたので、この先よけいに必死になる。誰にも会わないどころか上にも下にも人はいない。たくさんの虫と一匹のヘビに会った。どうにも高さの極大値らしいところまで来て、先が下り坂だったから、バスの時間もせまっていたのでここで引き返すことにした。この極大地点から見下ろすと下の駐車場が手のひらに収まるように小さい。なのに山や湖は容貌を少しも変えておらず、そのスケールの大きさを実感した。見下ろしているのに同じ高さにいるみたいだ。

駅前に戻ってバス時刻表を確認すると、見間違えてて1時間以上待たなければならないことが判明。バスの窓からみとめた、珍しいコンビニを写真に収めに行ったり、酒でも飲んで待とうかと商店に入ってみたり(結局買わなかったが)、足湯に入ろうと思ったら定休日で、図書館で時間をつぶそうと思ったら休館日で、……という具合にぐだぐだ逡巡したあげく、駅前のベンチでぼーっとして待とうとようやく決心したらバスが来た。

16時過ぎに日原鍾乳洞に到着。涼しかったというのが一番の感想かな。一年を通じて摂氏10度を保っていて、冬に来ると暖かいらしい。今回いろいろやり残したこともあるので冬にまた来ようと決めた。帰りに鍾乳洞から東日原停留所まで30分くらい歩いたのがじつは一番よかった。山の中は人がいなくてとても静か。右手には大きな山が背景みたいに、でも確実に実在していてその中には広大な環境があることを感じさせる。人が暮らしてる場所になると、街並み(?)が度を越えて古い。木造建築当たり前、50年くらい変えてなさそうな商店の宣伝看板(「ウ井スキー」という表記を見つけた)。数十年したら誰も住まなくなるんだろうか。それとも新しく建物が建ち始めるんだろうか。

バスが駅につくと、次の電車があと20分足らずで出るということだったので、時間をつぶす間もなくさっと乗った。帰りの電車って何をしたらいいのかわからない。何か「精算」や「締め」のようなことをしなければならない気がしてしまう。あるいは、ふたつの世界が接続できずに、どっちにも属せなくなってわかんなくなる。何をするでもないので買ってあったチョコレートを食べ切り、Twitterに一言だけ書き、しばらくぼーっとした後、乗り換えをきっかけに、もってきた本の続きを読みはじめた。