楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

少年よピーナツをつまめ

予定があるつもりで寝たが寝坊したので予定がなくなった。ぼちぼち準備して、買い物のために街へ降り立った(この間1時間半くらい)。某電気街である。機械の細かい部品が裸で売ってるの見るの萌える。使わないのにネジとか買いたくなる。インテリアだよインテリア。しかしネジをインテリアとしてみている限り実務においてそれを使っている人達とは一線を画されるのだろう。工学や工業にはわりとあこがれがある。

特価で売っていたルーペを買って帰った。手許のテキストをのぞいてみると活字の細部までみえて丸裸にした気分だ。自分の手を見てみると、アトピーで皮が剥がれかけてるとこ(ちっちゃいささくれみたいなやつ)とかはっきり見えた。右手親指の指紋が薄れてるのも、感触としては認識していたが、あらためて視覚的にもよくわかった。ほこりがたくさん落ちてる。のぞいてみれば世界はでこぼこだ。パソコンに映し出される情報も個々のセルが示す光のパターンにすぎない。もちろん、半分は詭弁だけど、微視的になるとたいがいのことは驚くにあたらないフラットなものとして見えてくるというのはある。

学校の食堂でお弁当を食べて、流れでテキストの続きを読み始めて、ココアを投入して、しばらく読み続けた。まわりの声が気になり始めたので図書館に移動した。ノート取りながら読んで、細かい論点にツッコミ入れて自分で掘り下げてみると楽しくて、ひさしぶりに哲学してる気分を感じた。僕にとって哲学は、どこまでも微妙な論点に分け入っていくことなんだな。ルーペでのぞいてるんだ。確かに、天から地球を見渡してるかのような発言もするし、そういうの楽しいけど、それはなんか思ったことを言ってるってものであって哲学してるって意識はない。

そういえば出先でブックオフに寄って、岩波文庫のコーナーを見てみると石川啄木歌集が目にとまって、手に取って見てみると意外と読みやすい、というのはなんなのかわからないが、詩のたぐいは読みづらいという潜入県(先入見)があったのでしょう、それはいいんだけど、あまりにもなじみやすいので苦笑した。親近感だ。人間がちっちゃいぞ啄木。やたら悲しがりたがる性質は中原中也を読んだときの印象と同じだ。しょうがねえなあって。でも言いたいことをすぱっと切り出して提示する手腕はみごとだと印象を受けたので105円だったのでお買い上げしました。『考える技術・書く技術』(板坂元、1973)といっしょに。

今日はめずらしく段落が重なるに従って文章量がふえている。そんな日もあります。べつに日のせいじゃない。