楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ルビコンまんじゅう

「愛とは何か」という問いに長い間ピンときてなかった。なぜ愛が問題になるのかわからなかった。というか愛という概念を了解していなかった。愛がなんだかわからなかったのだ。でも「愛とは何か」と問う人の動機も、まさしく「愛がなんだかわからない」という困惑であったに違いない。では愛がわからない僕が愛について問うことなんか思いもよらなかった一方で、愛がわからない彼が愛についての問いを切実でリアルなものと受け止めていたのはなぜか。たぶん多くの「哲学的な」問いと同じく、愛について問えるということは、知っているけど知っていないという事態を出発点としている。そこには時間について問うアウグスティヌスよろしく「愛について知っているけど、説明しようとすると愛について知っていない」という逆説が織り込まれていただろう。でも僕は単に愛について知らなかったので、愛について問えなかった。問う必然性を理解しなかった。愛って好きの言い換えでしょ。そう思ったわけである。好きであることに不思議なことなんかない。(いや、あるのだろうけど、愛について問う人の問い方は、好きであることの不思議への問いの匂いをもっていなかった) 要するに、「なぜこの世界はあるのだろう」みたいな素朴な問い、純粋に疑問の解決を目指す問いでは、それはなかった。先走って言い表してみるなら、現実の改善を目指す問いだ。確かに愛は好きを出発点とする。家族に対する愛も、異性に対する愛も、羊に対する愛も、コーラの空き瓶に対する愛も、まずはそれらが好きだということからはじまっている。そのあいだはいい。好きはポジティブな感情だ。純粋にただ好きなものがあると生きるのが軽くなる。でも愛への問いにつながる裂け目もまた、この「好き」の中に孕まれている。君は今、「純粋に好き」と言った。でも純粋に好きなんてことがほんとうにあるのだろうか? 純粋に見返りを求めない一方的で無害な愛だと思いつつ、実は見返りを求めているんじゃないだろうか。君がその人を好きなのは、その人が君を受け入れてくれる/くれそうだからじゃないのか? そういう疑いが生じたとき、自分が無邪気に抱えている「好き」という思いがぐらつく。ぐらつくのはもちろん、その疑いにリアルなものを感じるからこそだが。
なるほど。僕は彼女のことが好きだ。でも同時にそれは、彼女から何事かが得られることを期待しての、「好き」なのだ。でもどうだろう、この2点が揃ったからといって、べつに現実が耐えきれず崩壊したりはしないのではないか。つまり、「好き」ということはあらかじめ自己利益を前提とした感情なのかーと納得すればよいのであって、そこで「好き」に自己利益が忍び込んでいたからといって「ほんとは好きではないのだ」と結論しちゃうのはいかがなものかと。うーん、でも、僕のそれはもともとは自己利益をぬきにした「好き」ではなかったのだろうか。僕が 808 State の音楽を好きであるように。僕は 808 State の音楽をただ聴くだけでよいのであり、それ以上のことを求めない(求めえない)。それと同じように、僕は彼女の存在をただ感じるだけで、彼女という太陽から流れ出る光にあずかるだけでよかったのであり、それ以上を要求していなかったのではないか。うんぬん、調子づいて当初予定していた内容をはみだして色々考えたくなってしまう時点で、好きとか愛とかいうことには問題にしたくなるだけの複雑さ・深みがあることはわかった。ところで「好き」という言葉ベースでここまでの論述が書き切れてしまったことを顧みるに、やはり愛というのは「好き」を高尚に言っただけのように思われる。(その一方、「愛する」という動詞は、「好き」にはない内容が含まれているように思う、けど、わからない――と言いたい一面、僕には「愛する」がどういうことなのかなんとなくわかってしまう部分もある。あまりよくないことのような気もする。でも、どっちでもいいことのような気もする。) 要するに、「好き」という素朴な感情に欺瞞性を見出してしまった人の一部は(あるいは大部分は)、「愛」という概念を創出して、そこに理想的な「好き」の原型を託そうとする。自己利益にひたされた「好き」でない、ほんものの「愛」がどこかにあるんだと。その本物の愛の内実は人によって違っていて、ひとつには自分を犠牲にしても相手を守る愛かもしれないし、ひとつにはどこまでも互いを対等に扱うなかに見出される愛かもしれないし、まあなんでもいいんだけど(ネタが尽きてきた)、ようするに色々試しつつすわりのいい体勢をさぐっているのかもしれないね。ともかく、この愛の問題ってやつも他の問題と同じく、「ほんとうの○○とは」という形態をとる、というか、そういう形態をとる問題の代表格なのかな。「教育とは」「真実とは」「クラシック音楽とは」。でも結局わからないのは、「好き」に自己利益が含まれてちゃなぜいけないのかということだし、そこを否定したいときになぜ「ほんとうの」というレイヤーが背後から登場できてしまうのかということだ。そりゃ、純粋に好きだと思ってたのがじつは純粋じゃないと気づいたらぎょっとするけど、そのぎょっとするのがすでに「純粋な好き」のなんたるかを前提してしまっているじゃないか。