楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ミサンガ仏頂面

月曜から土曜までbotになっていたのでそのことについて書いとかなきゃいけないですね。(?) Twitterで投稿するときに「これは投稿すべきかそうでないか」と迷うのがめんどくさくてやだなーとそのころ思っていたので、投稿するかどうかをその場の自分が決めない仕組みでやればいいのかと考えたわけです。それで、たまにある朝のゆううつにまかせて可決させちゃった。もうひとつ先に思いついた案として、「投稿ボタンを押したところでサイコロが振られる。奇数目だったらそのまま投稿され、偶数目だったら破棄される」てな仕組みを作りたいとも思ったのですが技術力がないのであきらめました。投稿するかどうかを自分の手から離すという趣旨はわかるが後ろ向きすぎるな。

もちろん、発言がTwitter上に投稿されるときの最終的な投稿ボタンを押すのが機械だと言うだけで、ツイートの内容は僕がその日に新しく考えていましたし、さらに言えばtwittbotのシステムにツイートを登録するときなんかに「これは口に出すべきだろうか」という考慮ははたらいてたわけですが、それは別にいいのです。結局わかったのは、botであるということは僕自身はTwitter上に存在してないってことでした。投稿されるのがすべて新しいtweetだとしても、結局Twitterのルールでは「投稿しているときのみその人は存在する」ということなんですねえ。Twitterのなかでプレゼンスを主張しなかったかわりにネタ職人的にはなれた気がします。職人というとおおげさですが。1日に投稿できる上限も決まっていたし、ツイートはそれが投稿される前日の夜にまとめて蓄積していたので、自分が単に何を言いたいのか、何を言うべきかって点に集中できたかもしれない。

もちろんその場で言いたいことがらってのもあって、そうした言いたい気持ちは飲み込まなきゃいけない。でもそれって「おなかすいた」とか「ねむい」とかそういうたぐいのもので、たしかにそういうことを言い続けるのも大事かなとは思うのですが、でも単に「言いたいことをその場で言う」こと、「言いたいことをいつでも言いたくなったときに言う」こと、つまり言いたいという単なる欲望を満たすこと自体はそんなに重要じゃないかなとも思いました。それよりは、言いたいことを言うべき時に言うこと、今しか言えないことをのがさず言うこと、そういう構えでいたほうがイイんじゃないかな、とこれは今思い返していて思いました。