楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ビタミン階級

就職活動はお休み中で(行き詰まりともいう)、人間ヒマになるといろんな周りのことに気づける余裕ができますね。というか、ヒマじゃなくてもいいんで、いろんな周りのことに気づけるためには、心に余裕をもつとよい、ということで。具体的には散歩してて猫を見て、鳴かなかった猫の鳴き声と鳴かなかった僕の鳴きまねとを想像して、猫の声の音域より僕の音域のほうが広い?――僕の地声の低さで猫は鳴かない、というとこまで関心の鎖をつなげる、といったこと。

雨の日は長靴を履きます。作業服なんか売ってるような店で買った、長靴らしい長靴。周りの人に言わせると、お魚屋さんに見えるらしいです。(そっか!世の中にはおしゃれな長靴、長靴に見えない長靴というものがあるのか)

でも不思議なのは、雨の日に長靴を履かない人がいるということ。しかも多数派?というくらいいるということ。そりゃ長靴は暑いよ。通気性も悪いし。でもスニーカーが浸水して靴下までずぶ濡れる不快感を考えれば(それから私は肌が敏感なので雨に濡れるとかゆくなるのである)、長靴を履くことは僕にとってある克服と勝利を意味しているのです。

というか雨が降ってるなら長靴履くのは当たり前じゃねえ? むしろ唯一の正しい選択肢である、と思うのですが。ここで「正しい」ということのこころは、雨が降ったら雨を防ぐ措置を講ずるのが当然なのだとしたら、それは上半身だけでなく、足下にもその当然さが適用されてしかるべきではないのか、と。

この考え方自体は正しいと思っている。雨が降ってるなら長靴を履くのが唯一正しい選択だ、と。でもその考えが有効だったり人の行動を左右する力をもつのは、そもそも正しさってのが問題になる場面においてだけだ。言い換えると、「正しい」ってのは唯一絶対の裁定者なんかではなく、いろいろある価値のうちの一つだ、ってこと。(今日はこれが言いたかった)

さっき、「長靴を履く」ことを正当化する(=正しいとする)ために、雨の日に雨から身を守ることの正当性にうったえた。雨の日には傘を差して出かけるのが正しいふるまいだ。なぜなら、全身濡れたままで電車に乗ったり喫茶店に入っりしたら誰かが迷惑するからだ。迷惑するのはなぜかというと、基本的にはみんな濡れるのがやだからだ。自分の体とか、かばんとか、店のイスやテーブルがぬれるのがいやだから。その点、靴は濡れてもそうした迷惑をかける心配はまずない。濡れた靴が触れるのは地面であり、床だ。地面や床は濡れてもいい汚れてもいいとされてるから、濡れた靴で歩いてもかまわない。

あれ、じゃあ、「迷惑だから」という線で行くと、靴を濡らすのはべつに本人が気持ち悪いかどうかという問題でしかないことになる。確かにそうだ。僕だって「人に迷惑がかかるから、長靴を履きなさい」って誰かに指導したりはしない。長靴を履く理由を説明するときは、いつも「自分が気持ち悪いから」と言う。

じゃあ各々が勝手にすればいいことじゃないだろうか。いや、僕もそうだと思う。だから長靴を履くことは、モラルやマナーに属する問題ではない。それでも長靴を履くのが、なんつーか、こういっていいならば、大人ではないだろうか? だって、雨の日に靴の中びっちょびちょにして出勤するより、自分の足をきっちり雨から守って出勤するほうが、なんか、「大人」だって感じがしないだろうか。私の思う大人とはそういうやつだ。それでお魚屋さんみたいな長靴を履く必要はないけど、なんかほかのスマートな仕方で靴の中ぐっちょぐちょになるのを回避していてほしい。だって、靴下が濡れて気持ち悪いまま職場のパソコンに向かってExcelで作業して、そのうち自然に乾くのを待つとか、大人になっても俺ってそんなんなのだろうか……!

という意味で雨の日は長靴を履く(かそれに類する処置をする)のにはもっともな理由があると思うのですがどうでしょうか。そうやって意味を広げてみるとやってる人は実はけっこういる気がした。だいいちスーツにあわせる革靴って水に強いし。