楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

2 自分の未来へと口出しすること

前回のまとめ。大人問題とは、大人と子供が分かり合えないという問題である。しかも、それが同一人物の中で通時的に生じる。これは、通時的にであれ同じ人物が矛盾した見解どうしをとることをも意味する。

しかし、人が見解を変えることなど日常茶飯事だし、それ自体は咎めるべきことではない。大人問題もその一端なんだと理解することができるかもしれない。だが、人が見解を変えることが非難に値する場合もある。たとえば、同じ議論の中で立場をころころ変えることは感心した態度ではない。議論に非協力的な態度だからだ。だが他方で、議論の中で自分の間違いを認め、立場を修正することは非難されるべきではない。大人問題がこのうちのどのケースに該当するのか、しないのかは検討の余地がある。

ところで、子供が非難しているのは、「人が見解を変えること」そのものなのだろうか。だとしたら、その子供はとうてい擁護しきれない考えを抱いていることになる。いっさい人が見解を変えてはならないのだとしたら、一度抱いた見解は修正することができない。アメリカの首都がニューヨークだと思い込んだものがいたとしたら、その人は一生そのままということになる。この不条理は明らかだ。非難の矛先を、「いっぱんに人が見解を変えること」から、より狭める必要がある。あるいはまったく別のところに原因を求めるか。

とりあえず、前回からの懸案だった、「問題が問題でなくなる」の「問題」の中身をいくつか充填しておくことにする。大人になるにつれて失うものとはなんだろうか。たとえば、社会の不条理を受け入れること。社会の不条理への嗅覚だ。いわゆる社畜と呼ばれる人たちは、月に休みが2日でも「そういうものだから」と受け入れるかもしれない。わかんないけど。かりにそうだとしたら、子供はそれを堕落だとして攻撃するだろう。あるいは、愛はすべて自己愛の投影にすぎないと気付くこととか。いや、べつにそれが真理かどうかは今はこだわらない。まあなんでもいい。こうして挙がってくる問題に共通なのは、そこに「理想の放棄」という契機がかかわっていることだ。理想の社会に理想の愛、そういうのが現実的になかなか実現できないことに直面し、やがてあきらめる。求めても求めても得られないなら、それを放棄するのが合理的な方策かもしれない。でも子供に言わせればそれは日和って逃げただけだ。ここからは水掛け論になる。特に長期的なスパンをもった話しに関しては、なにが合理的かなんて思考だけによって決められるわけではない。明確なゴールがないまま、自分の基準で自己弁護を繰り返すことになる。

ともかく、上記のように内容を補完してみると、子供が避難しているのは「なんであれ見解を変えること」ではなく、「「重要な問題において日和る」ことを肯定すること」だということがわかる。日和るのは確かにかっこわるい。逃げるよりも、自分の信じたほうに進むのがあるべき姿だという気がする。

でも、大人にとってはそうではないのだ。日和るのは別にかっこわるいことではない。自分が信じたほうに進んで破滅するより、逃げちゃったほうが賢明だ。大人はそう考える。(世の大人すべてが本気でそう考えてる、とか言いたいわけではなく、大人問題を抱く子供はそう考えるだろうということです。)

つまり、何がかっこいいか、かっこわるいか、あるべき姿かどうか、という点が、大人と子供とで違うことになる。少なくとも、ある行為が容認可能かどうかという点で違う。耳慣れた言葉でまとめれば、大人と子供は価値観が違う。そして少なくとも子供は、その食い違いを許せない。

この対立は、通時的にだけでなく、共時的に、つまり自分と他人との間でも成り立つ。「無理に社会に立ち向かうより順応しちゃったほうがいいよ」と友人が語ったとしたら、子供はその友人を軽蔑するだろう。重大な問題であるほど、意見の相違を解消しなければならないと感じる。

しかし、これは微妙な点だけど、大人問題はそれとも違う。「ああいうふうにはならないぞ」という意識がともなう。その裏には、いま軽蔑しているようなヤツに自分がいつのまにかなってしまいかねないという危険意識がある。そして、そうなってしまった時点で、子供が感じていた問題は色あせてしまう。問題が問題でなることを恐れる。問題が解消されることを恐れているのだ。

ところで、死に関してこれと似た話がある。「死んだ後も名を残すなんて 欲のかきすぎだ」(真心ブラザーズ「人間はもう終わりだ!」)という歌詞がある。あるいは、死んだ後にどんな形で葬られたいか人は考える。そしてなんらかの希望を持つ。葬式は簡単でいいとか。でも、自分が死んだ後の世界(「死後の世界」ではなく)を自分は経験できないのだから、そこで何が起ころうと自分には関係ない、知ったこっちゃないどうでもいいことなのではないだろうか? でもそうは考えない。死んだ後に自分の家族がひどい目にあったり、死んだ後にフランス現代思想が「哲学」としてはびこったりするのに私ははっきり否定的な態度をとる(※フィクションです)。逆もある。死んだ後であっても、自分の好きな人たちがよくやってたり日記を書く人が増えたりするなら、それは今の自分にとっても望ましいことだ。

なんでそんなことが可能なのか。仮説だが、「より望ましい世界」「望ましくない世界」というものを私たちは考えるのではなかろうか。その世界とは、私やあなたという個人の利害から一歩引いてとらえられる、非人称的な概念だ。仮に自分が生まれなかったとしても、家が貧しくて苦しんでる人がいるのは悪いことだ。世界に対する望ましさは、それを感じる人がそれを経験するかどうかに左右されない。実際、貧困で苦しんでいる人を実際に目にしていなくても、その人が知り合いとかじゃなくても、それが悪いことだと判断することができる。このように、人は、自分が経験できる範囲を超えてその良し悪しを判断できるようだ。

大人問題もその一種ではないだろうか。それが他人であれ自分であれ、理想を追求しない者が世界に一人増えるのは悪いことだ。自分が大人になって、今問題と感じていることを問題と思わなくなるかもしれない。まさにそのことが問題なのだ。それはつまり、自分が正しい見解を抱かなくなることへの危惧、誤った見解を抱く者が一人増えることへの危惧だ。

自分の未来の価値観にまで口出しすることがこれで理解できた。しかし、ここにおいて大人と子供の対立が解消されたわけではない。というより、「非人称的に望ましい世界」の概念を導入したからといって、もともとの対立が「子供にとって望ましい」と「大人にとって望ましい」の形に持ち越されただけだ。

そもそも、対立を解消することが目的なのだろうか? 子供が大人の言い分を、大人が子供の言い分を、どちらも一理あると認めることができれば、それで話は終わりなのだろうか。