楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

子供の特徴大人の特徴その1

昔の日記を引っ張り出して、自分がいままで書いてきたことをさらってみた。そのまとめ。時系列順でみてみる。

 成長とは自己の欠点の発見なくしては現れない。それは自分の中の不合理なものを捨てていく作業であり、そうして不合理なものを失っていった姿を、大人と呼ぶのかもしれない。(2007.1.14

ようするに子供は間違っている。その間違いに気づき、考えを修正していった先に大人がある。たとえば文法を徹底的にやれば英語が読めるようになるだろうという信念を、どこかで捨てることになるかもしれない。それは研究結果によったり、他の人のアドバイスによるかもしれない。しかし厄介なのは、「文法を徹底的にやれば英語が読めるようになる」ということを本人が自覚するのが難しいということだ。文法をやっていても読解力が伸びないかもしれない。でも、それは勉強が足りないからだ、もっと徹底的にやれば伸びていくはずだ。そう考えて、同じ信念を保持し続ける。いわば一箇の人間の生の内側において反証可能性を確立するのは困難だ。未来は不確定だし対照実験もつくれない。少なくとも十分な材料は揃わない。

その信念が「不合理」だってことを知ることは結局のところできない。ただ、その信念を捨てて別の信念に乗り換えたときに、前のものが「不合理だった」とラベル付けされるだけだ。でもそうやって信念を乗り換えていくことがよりましな結果につながる(という信念で今は、やっている)。役に立たない信念というものはある。実験結果や他者のアドバイスがそれを教えてくれる。それは何かを確定してくれるわけではないが、参考にはなる。子供は参考を軽視し、大人は参考で満足する、なんて対比が可能だ。大人は、不完全な情報にもとづいて行動する——そこに賭ける——ことができる。

「大人」が見逃してるところを、「本当にこれでいいのだろうか」と問い続ける。それは答えの出ない問いだ。「○○は△△であるべきだろうか」と問うのだ。たとえば、昔の僕が「はてなに移行するべきだろうか」「Twitterを始めるべきだろうか」と思っていたように。これに対して大人は「そんなの答えは出ないよ」「やってみて問題がなければそれでいいじゃん」と言って、他の、成果が出そうな分野へ向かう。(2010.3.31

なんかお分かりかもしれませんが、これって僕の経験にべったり張り付いた話です。つまり一般的な大人・子供概念というより、僕の中にいる大人と子供の話。

かくあるべきかと子供は問う。それは何らかの目的に相対的なそれではなく、いわば端的な「べき」だ。功利主義的計算とか普遍的義務とか有徳な人間像とか利己主義的快楽とか、そういう倫理学的アレに基づいてないタイプの「べき」ってこわいよね。基盤を持たない「べき」。ほんとうは、どこかにプラグがつながってるのだろうと思うけど、たぶんその源泉は育った環境も含めていろんな要素がミックスされたところにあり、おそらく明確な思想の形を取らない。それゆえにこの「べき」は、正体を表さないままに私たちに指図する。いや、指図するというより、「本当にこれでいいのか?」と語りかけてきて、かれの理念が示すところを本人が選んで実践するよううながす。いやらしい。でもその理念がなんなのか明確にはわかっちゃいないのだから、ぐずぐず悩むしかないのだけど。

そんなものには根拠はないよ、ほんとうは人間は自分のエゴに基づいて行動してるだけだよ、人様に迷惑かけないかぎりで欲望のままに動けばいいんだよ、と信念固めて行為し始めるのがたとえば大人の第一段階だと思う。正体不明の問いかけに足止めを食らわない点ではまあ柔軟。行為の理由を人に説明できるというのも利点だ。

「こうあるべきかどうか」に決定的な答えが出ないうちは行為できない、というのが子供のスタンスだが、答えを作るためにはまず行為しなきゃならないという事情があったりして、このジレンマをまともに食らうと大変不自由する。

本筋とは関係ないけど、人生の意味みたいな問いに「そんなの答えはないよ」と言っちゃうのは不用意な言葉遣いだと思う。それが意味しているのは「この問題に答えがないことを発見した」ことではなく「考えたけどわかりませんでした」ということだ。そう言う人は、考えたけど答えが見つけられなくて、生きてるうちにだんだん気にならなくなったというにすぎない。問いに関心がなくなったことと、それに(否定的な)答えを与えたこととは別のことだ。

 

今日はここまで。このパートはあと1回か2回やります。