楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

概念と顔

「関数になりたい」とか「概念になりたい」とか、たまにわけのわからないこと思う。たいした意味はない。あくびのようなものだ。関数も概念も抽象的なものだから、それになることはできない。(いや。抽象的なものだからこそ、この身このままで「なれる」のかもしれない) それはともかく、こうした願いの亜種として「数式になりたい」というのを考えることができる。しかしこれには魅力がない。なぜか。数式というと、いろいろある数式のうちの一つという感じを受ける。相対性理論の式でもフェルマーの大定理でも、直線の一般式でも、圧力を定義する式でも、そうした無数にあるうちの一つだ、という感じがして、あまりわくわくしない。それを言うなら関数も、概念も、無数にある。そのなかで数式だけが無数にあるうちの一つだという印象を与えるのは、数式には顔があるからだ。E=mc^2とか、x^n+y^n=z^nとかいうやつだ。顔によって数式は個別化される。数式は抽象名詞ではなく、集合名詞として扱われる。関数には顔がない。いや、そう感じるのは僕がふだんから数学に親しんでいないからかもしれない。でも僕にとっては関数は顔によって個別化される存在ではない。「チベット人になりたい」なんてのも同じかもしれない。チベット人たちの顔を僕は知らない。概念にも顔がない。いや。たとえば「側溝」という文字列が側溝の概念の顔だと考えれば、ある。しかしそれではそっけない。逆に、ツイッターの個々のアカウントにはアイコンという顔があるため、「ツイッターのアカウントになりたい」という願いを形成することは難しい。