楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

本棚の整理をした。机の上に本が積まれてたいへん不便というかそもそも勉強できねえ状態になっていたので。勉強するときは本の山を床におろして寝るときに机に戻してという空虚な労働を強いられていたので(床に置きっぱなしは諸事情でできなかった)。整理をしたっていうかスペース空けたってことだな。当初はねえ空間を有効活用した上で目当ての本に客観的な仕方でたどり着ける配列にしようと構想していたわけですが、構想と現実がかみ合わず、それを実現するには本棚がもういっこ必要だとの結論に達した。本棚をふたつ用意して、自分がかかえてる蔵書すべてをNDCに従って配架すればいい——十進分類を採用するほど多種の本を持ってるわけではないのだが、十分機能するだろう——という結論に達したのだ。でも本棚買ってくるくらいのやる気がないのであきらめて本棚から本を追い出す作業にスライドしていった。路頭に迷う本の山をまたひとつ産出した。ところで漫画を読みました。本棚に残す本を選定する作業において、わたしの所有する10冊程度の漫画本が手に取られた。開かれた。たとえば真造圭伍『台風の日』。これがグンバツにおもしろい。小学館がトガった出版社だと知ったのもこれを通してだ。著者は人間を描く。重たい出来事、でもまあ誰にでもあるような出来事や心理も描く。あくまでも軽いタッチで、だけどそれだけにリアルだ。それが、昨日も書いたようなことだけどなんらかの対応を読み手に迫る感じがして、そうゆう出来事はおまえにもあるのだぞと告げていて、読んでいておもしろいのだけど何かを吸い取られてゆく感じもする。自分の内側になにかを蓄積していく読書があるとすれば、自分の内側からなにかを差し出さねばならない読書もあるってことだ。ふーむ。哲学書なんて思っきり後者に属していていいはずだけど。どこかでまちがえたか。なんだか以前ぼくが繰り返していたようなモチーフに戻るけど、見たくないものをなるべく見ないようにする、見たくないことから目を背けてることにも気づかないようにする、そうした周到な自己欺瞞のなかに生きているのかもしれないし、なんならそのなかに深く深く進んできてさえいるのかもしれない、そんな疑いがわいた。ま、考えても仕方ないことは考えないのが唯一にして最良の対応だと信じてますけど、でもへんじゃないか、すべてのことに直面する準備ができているとしたら、「見たくない」「いまは考えたくない」なんて感想はでてきやしないはず。わかんない。また考える。