楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

秋だから

秋だからね。やたら泣きたくなるよね。秋だからつって季節のせいにして別の要素の照れ隠しにしようという魂胆でしょうか。でしょうかって誰に聞いてんのってお思いかもしれませんが心の中のひとりごとでさえ僕らは自己欺瞞にはげむのさ。しかし泣きたくなるだけではなく踊りたくなったり走りたくなったりするのでやはり秋なのだと思います。もどかしい。春のもどかしさと秋のもどかしさは異なるものでしょうか。よくわかんないです。ただ今年は、すくなくとも今年はばっさり実線で区切られて夏から秋に入れ替わった実感がある。暑いから寒いへすり替わった。そしてそれと同時に――因果関係だとは断定しないが、少なくとも同時に――ものの感じ方もぐっと変化した。だから「秋だから」。ねぇ。

もどかしさは、最終的な是非はどうあれ、少なくともそれを人は遠ざけようとする性質の情動だと思いますが、これとは対照的に、好ましい変化をも秋はもたらす。ごはんがうまいのです。ごはんがうまいというのは健康の兆しのもっとも輝かしいものの部類だと思います。それで「うめぼしとはこんなにうまいものか」とか思いながらバイト先でお弁当を食らっておったのですが、そうしていてふと浮かんできた疑問。ごはんがおいしくても、「この調子でうまいものをめいっぱい食べてやろう」という欲望がわかないのはなぜか。読書や音楽だったらこれがわく。というか読書が目下そんなおもしろくなくても、音楽をろくに聞いてなくても、「おもしろい本をたくさん読もう」「いい音楽をたくさん聴きたい」という気にはなる。でも食事はそうはならないな。それは食事が僕にとって見栄を張る場所ではないからかな。僕は読書や音楽で見栄を張る用意がある、あるいはその用意を重ねている。でも食事に関しては、なるべく安くすませようとする。街中のグルメを食べつくそうという用意がみじんもない。あとは、食事には明確な限界、生理的・物理的限界がある。ローマ人の宴みたいなことをしないかぎりは。それに対して、本は読もうとすればいくらでも読めるし、音楽だって何時間もぶっつづけで聞くことができる、かのような気がする。ほんとうはちがうけど。

ちなみにタイトルは「春なのに」にかけてるわけではない。いや、書いてて自分で思い出して検索なんかしてるうちに、かけてるように見えてきたので自分で否定してるだけなんですが。中島みゆきによる歌詞をぺろっと読んでみたらやっぱりずしっとくる。容赦ないな。みゆきー。