楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

底冷えロックンロール

考えたことを忘れてしまう。だから書く。なにかすこしは興味深いことを考えていたはずなのに、その話題も展開も思い出せない。だから書く。思い出せるように書く。思い出せることや覚えていることはいいことなんだろうか。忘れることは幸福だ。忘れることは幸福をもたらすことはあっても不幸をもたらすことはない。いや、それはわかりやすいまちがいだ。忘れたいいやなことを忘れられることが幸福なら、忘れたくない大事なことを忘れることは不幸だろう。でも、その先に行って、大事なこともどうでもいいことも今すぐ忘れたいことも、ひとしく忘れてしまうなら、その人を幸福だと私たちはいうだろう。なにもないことは幸福なのだ。ほんとうだろうか。そう思う人は、忘れたいいやなことがあまりに大きく見えすぎていて、一切皆苦な気分になって、忘れたくない大事なことに注意を向けていないだけじゃないか。でもそうでないとしたら。忘れることがらの性質にかかわりなく、ただ記憶をもつことそのものが不幸だ、そう言うのだとしたら。記憶にまつわる属性をすべて捨象した上で、記憶のあるなしという別の次元で考え始めるとしたら、それもあってよさそうな気はする。しかしいずれにせよ、「忘れることは幸福だ」なんて人前で言う人は信用ならない。どうせその命題を心から信じてはいないのだ。「忘れたいよねー」「ねー」といううしろむきなコミュニケーションをアジテートしたいだけなのだ。だから、「忘れることは幸福だ」を実践して、三歩あゆめばすべて忘れる生き方をして、そのうえで「忘れることは幸福だよ」って言うなら……いや、そこまで行けば、もはやそう口にする動機さえなくなる気がする。「幸福」など幸福をもたぬ者がそれを対象化して語りたがるときの語彙だ。

いや、そんなこと考えてなかったんだけどね。いや考えてたか。風呂とかで。

そそ、そういえば、「なんであんなこと言ったんだろう」と思うようなことをふっと思い出すと、とっさにぎゅっと目をつぶっている。という癖を自覚した。なんか、認めたくない自分の一面、みたいのが自分にはないなぁアハハ、と信じて生きてきたんだけど、どうもあるみたいだね。そりゃそうであろう。自分で自分がいやになるってテーマで長いこと文章を書いてきたんだし。まあ「認めたくない」と「認めない」にはギャップがあるから。「認めたくない」から「認めない」にただちに進んでしまうのがやだな、と思って防御してたんだろう、いままで。