楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

底抜け楊枝

バスが好きだ。あの娘と一緒にバス乗りたいなって思うよ、バスが好き。ふだん使う交通手段といえば徒歩と電車だ。徒歩も電車も好きだ。自転車も好きだ。それぞれに好きな部分があるように、バスも他の交通手段とは違う好きな部分がある。それを言葉にするのは難しい。たとえば景色の流れ方。徒歩ほど悠長でなく、自転車よりも景色を見る余裕があって、電車よりもゆったりしている。それから、構築された環境としてのバスが好きなのだとも思った。すぐ気づくのはアシンメトリーだということだ、でも、いろんな形いろんな色の部分は、ひとつの目的に沿って配置されている。整然としていない秩序。

ほんとはこうして語ってみたところで、バスの魅力を言葉の中に閉じ込めて、写真を撮るように残せるわけではない。というか、写真だって、はじめてみてわかったが、経験をまるごと記憶させるための媒体なんて性格はもっていないだろう。伝えるというのは、やっぱり、一方の内に存在するなにかを他方へと移すような行為ではない。というと広げすぎだが、しかし、感じたものを自分が感じたままに相手も感じられるようにさしむけるだけがコミュニケーションではないだろう。私たちができるのは、経験を材料にして生まれた言葉でひとを刺激して、べつの新しい何かを生ぜしめることだ。かりに僕のバス体験をあなたにそのまま体験させることができたとしても、それはあなたにとってたいした意味をもたないだろう。体験の質は、じつに、たいしたことはないのだ。その体験を僕にとって重要にしているものは、質に対してなされる意味づけだが、意味づけこそ個人的でローカルなものだ。そんな、どこまでも個人的なものを、他人というブラックボックスに投げ込んだとき、どうなるのか、ってことを、続けてるんだろう。もちろんその結果の多くを見ることはできないけど、それでもやらずにはいないはずだ。

久しぶりに市バスに乗ると、運転席の上にある、次の停車場を表示する装置(次停名表示器といったりするらしい)が新しくなっていることに気づいた。LEDの光で点描していたのが、フルカラーの液晶ディスプレイになっている。(ここまで書くのにいろいろ検索した) もちろんLEDのやつのほうが好きだ。バスの内装に美しく調和していたから。ともかく、小さい頃から見ていた表示器が、フルカラーの、MSゴシックの文字が流れるディスプレイになってみると、自分の乗ってきたバスが過去のものになったように感じられた。過去へと失われたように感じられた。なんだ。じゃあバスに対する僕の親しみは、ノスタルジーをつがいにしたものだったのか。小さい頃からバスの姿はほとんど変わらなかった(バスの方向幕がLED式になったという変化はあった)。それで、バスには小さい頃からの時間が蓄積されているように感じていたのだろうか。まあ、バスを好む自分の背景にノスタルジーがあってもかまわないんだけど、なんだか一部を変えるなら全体に調和するようにしてほしいななんて思う。