楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

キュビズム焦土

朝、市長選の投票で小学校に行った。投票が終わった後、遊具を集めてあるエリアにふらふら入っていって、誰も見ていなかったので、おもむろにのぼり棒に近づいていって、登った。小学生の時の何度かの経験からイメージしていたよりなんか、重かった。自分の体が。単に体重が増えてるということはあろう。体重とともに背丈も増えたので、3手くらいで登りきってしまった。棒が揺れて、上にある支点に当たってがんがん音がして恥ずかしかったので、上まで来たら間髪入れずに下っていって草履をはいて何事もなかったかのように歩きはじめた。

午後は田無に来た。東京都西東京市田無町。田無という文字列がおもしろくて好きだったので、行ってみたかった。着いた時点で13時を回っていたので、まずは昼食をと飲食店を探してみたものの、デパートの3階にあるスパゲティ屋さんのスープスパゲティがおいしそうだと思ったものの、高いな、自分で作れそうだし、出てくるの時間かかりそうだな、とか思い始めて(お金の制限は思想の制限だ)、結局吉野家にした。結局吉野家にしたものの結局焼き肉丼のようなものを食べて結局480円使ってしまった。

駅前の地図を見ると、東大農学部の施設があるというので(ここ見ると東大農学部は付属施設をたくさんもってるんだね)、近場で見れそうなものそれくらいしかなかったので、いやそもそも何かを見に来たわけじゃないんだけど、せっかくだからと思ってそこを目指すことにした。入り口近くまでは10分足らずで着いたが、寄り道が寄り道を呼んで結果的に中に入らず、その敷地の外枠に沿って歩いてる形になった。塀が続いていて、中にどんなものがあるのかちらちら見える。

結果から言えば中には入れなかった。土日月は公開してないということで。裏側に大きめの公園があって、人々がバーベキューなどしていた。日曜日だからね。母親がふたりベンチに腰を下ろして話をしていて、子供を遊ばせていて、子供は鬼ごっこをしていた。考えてみると鬼ごっこって興味深いのではないか。追いかけられるということは、自然界においては生死がかかったことで、動物にとって追いかけられるとは恐怖だ。そして、鬼ごっこにおいてもやはり、追いかけられることは恐怖だ。しかも、恐怖にフェイクな恐怖も手抜きの恐怖もないから、それはつねにシリアスな恐怖だ。遊ぶ人はその恐怖を「スリル」として肯定的に消化する。でもスリルに転じるためには恐怖は本物の、シリアスなものでなくてはならない。だから追いかけられる人は、捕まることを本気で恐れなければならない。つまり遊ぶときは真剣にやらないと遊びにはならない。しかし、すると、「遊びでやってる」という表現が、「真剣でない」の言いかえとして機能しているのは、なぜなのか。そこでは、「生きるためにやってる」のたんなる補集合として「遊びでやってる」が考えられていて、しかも、意識されず「生きるために」のほうに無批判に価値が置かれることになってはいないか。「生きるためにやってる」ことより、「遊びでやってる」ことのほうが真剣になることだってしばしばあるのだ。

ところで、逆に、追いかける側になると、もし一人も捕まえられなかったらどうしようとか考えて憂鬱になるので、鬼ごっこは追いかけられるほうが楽しいな、と小学生の頃思ってました。追いかける側は、ゲームの質を左右しますね。へっぽこな鬼では逃げ甲斐がない。自分がリーダーシップをとってゲームを展開しなければならないという、ソーシャルなプレッシャーがありました。

一時間くらい歩いていたらけっこう疲れてきて、体力の衰えを感じました……いや、一時間も歩けば誰でも疲れるものかな。「体力の衰えを感じる」とか言いたくなっちゃうのが、むしろ年をとった証拠なのかもしれない。