楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

公開魚類

意味の薄さ、というものに気づくようになったようだ。文章を書いているとき、この日記や、ツイッターの発言や、秘密のノートや、とにかく自分で内容を考えて自分で書く、というものを書いているとき。おや、ここは意味が薄いぞ、と思ったりする。

端的に言って意味の厚いものとは文章の中核となるアイデア、意味の薄いものとはそれに付随する説明だ。文章を書こう、何かを言葉にしようと思うときには、それを言葉で表明したい中核的なアイデアがある。ある新しい考えを考えついて、新しい何事かを発見して、それを言葉にしたいと思うようになる。

でも僕などは、アイデアを思いついた背景も書きたいし、アイデアを支える根拠も示しておきたいし、なんなら反対意見に対するあらかじめの弁解だって用意する気だってある。そういうものが無駄だとは思わない。だって答えを示すのと、その答えにたどり着く道筋を示すのと、どっちが親切かっていったら後者だろ。だけど、思いついた背景はともかく、根拠とか反論に対する反論といったものは、アイデアが生じた時点では与えられていない。つまりアイデアは、それを支える言論とともに思いつかれる訳ではない。書く段階になってはじめて根拠を考える必要にせまられる(根拠を書こうという人は)。

だけどそんな根拠はどうせその場で思いついたものだから、うーん、やっぱり見ていてどうしても軽い。頭の中の引き出しを探して、なんとか合うものを見つけてくる。きっとこの分野は読書量がものを言うのだろう。僕は読書量が少ないので引き出しが少ない。あり合わせのもので組み立てた「意見」は、それを支える屋台骨がとても弱い。見た目にもみすぼらしい。もちろん今日は自分の能力の低さを嘆きたいのではない。

中核的なアイデアは意味が厚い。これって一般的にそうだという話ではないし、なんなら文字通りの話でもない。でも、けっこう動かしがたい重さをそいつが持ってるのは確かだ。つまりそれを根拠づける仕方はいろいろありえても、もともと言いたかったそいつを別のものに差し替えるということは考えつきそうもない。もともと言いたかったそのことが、もしかしたら間違ってるかもしれないと気づくかもしれない。よくあることだ。でも、なんとかしてその言いたかったことを残せないかと僕なんかはむなしい努力をする。そして、間違ってるっぽいと思いながらも、自分はきっと間違ってると言いながら間違ってることを言ったりもする。

意味の厚さと薄さ。できれば僕は僕の発言に含まれる言葉のなるべく多くを、意味の厚いものにしていきたい。それは読者にとって僕の発言が有意義かどうかとは直接関係がない。きっと確信が欲しいのだろう。意味の厚い言葉は、経験と必然性に裏付けられている。それはかりに間違っていたとしても、意味のある言葉だ(本人にとっては)。

そう思う一方で、意味の薄い言葉が中核的なアイデアに付け加わるとき、自分の世界がひとつ塗り替えられていく感触もある。中核的なアイデアはひとつのこだわりだ。そのアイデアは思いついた後も、食事をしたり買い物に出たりした後も、頭にとどまり続ける。同じアイデアが頭にとどまっていることは、世界が停滞していることでもある。そのときにアイデアをアイデアのまま吐き出すのもいい。言葉にされたことは過去になる。でも、アイデアに余計な一言を足すのも、悪くないと思う。見栄えとしては美しくないかもしれない。でも、自分のこだわりのアイデアに、その場の根拠付けのような薄い言葉であっても関連させて続けてみると、そのアイデア自身の現れ方も変わる。まあ驚くべきことではない。新しく考えつかれたことに囲まれて、すでにアイデア自身が主題ではなくなっていく。僕が文章を書くとき、考えをそのつどアウトプットしないまま、いろんな考えが頭の中で飽和状態になってから書き始めたりする。そんなとき、いろんなことを思い出し、あるいは思いついたりして、もとのアイデアをゆったりと提示するどころではなくなる。出てきたものを見るとどれが主題だかわからなくなっている。ほんとのことをいえば、アイデアなんて重要じゃないと感じているのだ。もとのアイデアが、「言いたい」という気持ちを引き出すものであることは変わりない。でも、べつにもとのアイデアを中心に展開させて書きたいという気持ちはあまりないんだろう。アイデアの正しさに確信をもっているわけではないからだ。それはむしろ、多くの場合間違っているんだから、ただ言いたいことを言っただけで僕は満足して、関連したことを新しく考え始めてしまう。いや、飽和状態になってから書くのがいけないんだろうな。