楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

四谷行水

都心に出て買い物をした。人が多くてまっすぐ歩けない、話し声が右から左から聞こえるといった支障があり、特別なにもしなくても疲れる。デスクワークで体力が落ちたというよりは、もともとそうだったのだが、学生の頃はあまり積極的には直視しないようにしていたのだ。たとえば本屋に来たときに全部の棚を回る前にへばってしまうのでは、学問の徒として示しがつかないから。そんな意識があった。打ってかわって、あくまで余暇活動として書物にかかわっている今は気楽だし、その気楽さは数字に表れるような成果を生んでいるとも思う。ようは読書量は(授業の準備を除けば)あまり変わっていない。学生の頃なら「あとまわし」にしていた本も、自分本位に読めるから、幅も広がった。

すぐに話が脱線する。都会は疲れる。そして今の自分はそれを隠さない。そんなことを話した。買い物というものは自分を過度に慎重にさせ、と思えば悪い意味で驚くような大胆さを与えてくれることもある。要するにそいつは判断を狂わせる。そこには身銭を切るというリスクと、購入した物品を在庫として抱え込み、使うなり捨てるなりなんらかの仕方で処分する責任を負わされるリスクとがあるからだ。実際のところ、世間を生きていく賢さとはそういうところの決断のしなやかさに宿ったりもするのだろうけど、しかし苦手なもんは苦手だ。

そしてそれらリスクがリスクたるゆえんは、購入という手続きを踏まないと、つまり、そこで物品や人間たちの間の関係性が変化するようなイベントを経ないと、そのものを利用することすらできないということだ。購入しないことにはそのものを利用することができない。何がいいたいのかと言うと、図書館はそうしたたぐいのリスクが発生しない仕組みになっているから、非常に快適だということだ。参考になるかもしれない本を見つけたら、棚から取り出してきて読んでみることができる。書店でも立ち読みという文化は、まああるけれども、ゆっくり腰を落ち着けて資料を点検できるかどうかということは大きな差だ。

そう考えると図書館というものは、私たちが税金を出し合って維持するにふさわしいサービスだと深く納得できるが、一方で図書館なぞに税金をかけるのは馬鹿らしいと考えている人も大勢いるのだろうなという考えが、カウンターとしてやってくる。しかしそうした人が、では税金を何に費やすべきだと考えているのかは、聞いてみたいところだ。いや、普通に医療とか、福祉とか、答えは「図書館以外」のあらゆる領域にわたるのだろうけども。そしてこの話は、なにか書物とか知的なものに対して強い反感をもっている人たちが一定数いる、という実感をめぐる論議につながる。でもそういう話を生産的な形で語り継いでいく用意はいまはない。

ただ思うのは、学生の頃の自分というのは図書館というものをろくに使いこなせていなかったな、ということだ。それはとにかく、情報探索に臨むときにもっぱら絞り込むという仕方でのみあの資料の山に向かっていたことに原因がある。効率よく、読まないでいい文献をいかに省略するかが最大の関心だった。学問との関わり方にしても、もう本を読まなくてもよくなる瞬間を迎えるために哲学をしていた――なんてフシはある。書棚を歩くたびに関心が広がり、拡散していく快楽をもちろん知ってはいたのだが、それを「統制されるべきもの」と位置付けていたんだな。

確かに、気の向くままに行動することは計画にとっては敵でしかないが、そこをすっかり抑えてしまうのが正しい処置であるのは、その計画というものが非の打ち所のない完璧なやつで、そのプログラムに沿ってことを進めさえすれば万事OK幸せになれるって場合だけだということを、よく考えなかったのだよな。あるいは細部はともかく方針は間違いないと信じ込んでいたか。

今となれば自分一人が発想できることなどごくごく限られたものだということなど肌で知っているけれども、残念ながらこれはアプリオリな知識ではないんで、一人で考えている人は決してその認識にたどり着けないし、外から説得することも難しい。ただそうした自分の傾向がやがてぶつかる限界を知ってか知らずか、おのずから息苦しさをどこかで感じていたのも事実で、プラグマティズムとか図書館学といったものが魅力的に見えていたのにはそんな事情がある。今も、魅力的というのとは少し違うが、掘り下げるに値する対象だとは思う。