楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

仮病胴体

※途中で書くのをやめたものも発表することにしてみる。書き終えたものと比べて重大な違いがあるように思えないので。

本は私たちの経験を拡張してくれる。そんな言説に触れて、高校生ぐらいの私は、馬鹿馬鹿しいと思っていました。拡張するまでもなく、経験すればよいではないか、と。言葉を通じて間接的に知るよりも、そのものを直接に経験することの方が、情報量が多いのだから、本など読んでいる暇があったら旅に出た方が合理的なのではないかと、心の中で反論していました。その反論じたいが見るからに思弁的なものであったことは、まぁ、まっさきに突っ込まれるべき点でしょうけど。それに、旅に出るという手段選びがまずミーハーですよね。見たことのないものを見るために旅に出る――そうはいっても、使い慣れた交通手段である電車を使うし、異なる地域に出てみたところで都市部のたたずまいなんてどこも同じようなものです。札幌も大阪も、トビリシも、大して変わりはしない。小売店や飲食店やドラッグストアや銀行があり、車がそこらじゅうを走っている。娯楽を含め、生きるために必要なものなんてのはどこ行っても同じですから、人間の住むところ、街並みがある程度似通ってくるのはなにも驚くべきことではない。言い換えれば、旅行に行ったとしてもそうした「うちと同じ」部分ばかり目に入るようでは、その意味は半減なのですよね。見る目がなければ経験から有意義な知を引き出すことはできない。いやむしろ、経験そのものの厚みがたいしたことないまま終わるんですよ。さっきから昔の自分に滔々と説教を垂れて、私は連休の最終日の夜に何をやっているのだろうと我に返りますが、経験から多くのものを引き出せるための目を養う手段が本であったりもするのですよね。
しかし、経験による知識 vs 本による知識という論題はアプリオリに決着のつくものではなく、というか二者択一で考える必要もないわけで、むしろ二者択一で考えていたことこそが当時の自分がはまっていた陥穽なのだろうと思いますが、