楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

文字通りの意味とか客観的な基準とか

言葉が文字通りに意味していることと、実際に意味していることの間にギャップがあること。そういうことはありふれている。

よくある例では「暑いね」と言うことで同意を求めているのではなく、「窓を開けてほしい」というメッセージを発している、とか。

上の例であれば私もそのメッセージを察知することができる……気がする(書いてて自信なくなってきた)。しかし次のような例では私はつまづく。

  • 「暑いですか?」

こう聞かれるとき、本当はたとえば空調の設定温度を下げるか否かを聞かれている。それはわかる。しかし、自分が暑いと感じているかどうかがわからない。だからうまく返せない。じっと内省してみる。自分は今、暑いと感じているか? 心の声が返ってこない。要するにことさら暑いとは感じていないということだから、空調の設定温度は下げなくてもよいという返答をすればよい。しかし聞かれているのは〈暑いかどうか〉だから、その問いに対して答えを出さなければならない。また内省が始まる。

こんなふうにして答えられなくなる。どうも注意を向けるべきは〈言外の意味〉みたいなものだけではないようだ。むしろ、次のように解釈すると私の考えはほぐれる気がする。暑いか寒いかを聞かれているのではなくて、快適な温度かどうかを聞かれているのだ、と。快適かと聞かれれば、快適だと答えられそうだ。また、不快な温度かどうかと聞かれたときも、不快ではないと迷わず答えられそうだ。

何が違うのかはよくわからない。しかし「暑いですか?」は暑いか寒いかを聞いているのではなく、快適な温度を聞いている。そう理解するとスムーズにコミュニケーションできそうな気がしてくる。

 

もうひとつ類似と思われる話。私はカップラーメンを食べるとき、そのままでは熱いので(こちらの場合ははっきりと熱いと判断できる)、麺を一度お椀に取り分けて、少し冷ましてから食べるようにしている。ここに、「私は猫舌なので」という理由づけをトッピングしてみたい気がする。別にしなくてもいいのだが、自分という人間のキャラクター演出か何かのために付け加えたくなる。

でもそう考えたとき、一つの問いが持ち上がる。「カップラーメンを直接食べられない程度のことで猫舌を自称していいのだろうか?」「そのくらいで猫舌と自称してくれるな、迷惑だ、と苦情を申し立てたくなる人もいるのではないだろうか?」自分で書いていて変だなと思う。ただこうした自問が持ち上がるためのフックは、要するに何を〈猫舌〉であると見なすかは人によって異なりうるという事実だろう。摂氏何度以上の食べ物を口に入れられない人を猫舌と呼ぶ、みたいな基準はおそらくないし、作る必要もない。作っても別に役に立たないからだ。役に立つとしたら、「あなたは猫舌を自称しているが客観的な基準に照らして猫舌とは言えない、偽猫舌だ!」と理不尽に人を責め立てるのに快感を覚える人にその材料を提供することにおいて、ぐらいだろう。

そうなんだけど、「私は猫舌か?」という問いを立てた途端、世界のどこかにあたかも実在している「猫舌」の範疇に私が属するか否かを当てようとし始めてしまう。それはほとんど勘で。

まあこの場合、猫舌だと自称するかはこの際どうでもよくて、カップラーメンの食べ方を話題にしたいだけだから、猫舌という言葉を使わなければ済むことなのだが。一方で、猫舌という言葉がじゃあ無意味な装飾語なのかというとそうとも限らないという直観はあり、いつか猫舌という言葉を適切に使いこなしてみたいものだと思う。

 

さらにもう一つだけ。最後はなるべく簡潔に書きたい。

だれか他人のことを考えていて、「人間だし素直に言えないこともあるよな」と思ったとする。この言葉は、人間という生物種に特有な事柄を述べているわけではない。犬やバクテリアは常にものごとを素直に言うが、人間だけが〈素直に言えない〉ことができる、というようなことを述べているのではない。

むしろ、これは「誰にでもあることだ」ということを意味している。人間と人間以外の生物種を比較しているのではなく、人間という範疇に属する個体一般について語っている。

こんな注釈をしなければならないのは、たとえば「日本人は勤勉だ」と言われるとき、それは「〔他国民と比べて〕日本人は勤勉だ」という比較が暗黙に入っていると考えられ、それゆえ他国の調査結果か何かを踏まえることなく「日本人は勤勉だ」と言うのは説得力に欠けるどころか無意味な発言だと言える──そういう事情が息づいている領域もあるからだ。

「人間だし素直に言えないこともあるよな」が、それと同列に並ぶものなのかはよくわからないが、似たような匂いは感じる。一般に、Aというものについて語るときは、A以外のものについても承知していなければほんとうは意味をなさないと思う。ただ「人間」については事情が少し違うのかもしれない。それは、何らかの意味で「すべて」を指す言葉なのかもしれない。言い換えれば、人間の集合がドメインの全体となるような、そういう視点の取り方があるのかもしれない。「視点の取り方」があるどころか、無意識にその視点をとっていることがかなり頻繁にあるかもしれない。同じように、「日本人」がドメインの全体をなすような視点の中に暗黙のうちに入り込んでいることだって少なくなさそうだ。そういうのは井の中の蛙とか言うのだろうけど。

 

とかなんとか。大学のちょっとしたレポートぐらいの分量は書いたものの、なにかの結論が出るわけではない。結論が出るまで考える、は今はあまり追求していない。第一にしんどいからで、第二に結論が出るまでにやっておくべきこともたくさんあるだろうから。

しかしまぁ、自分で書いていてあきれる。私はなんと素直に言葉を使えないものだろうか。