楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

骨髄ケロッグ

夜、散歩に出たんだけどこの季節は生きているだけで痛むかのようで、一人で生きているかぎりはそれをいくぶん甘美なものとして受け止めてもいる。

なるべく嘘にならないように言葉を選んで書き出したら、自意識過剰な思春期の文章みたいになった。それこそがありのままだ(=俺はイタい奴だ)ということなのかもしれない。

 

「社会に出る」という言葉を無造作に使っている自分がいた。あるいは「日本/海外」みたいな対立項を素朴に使っている自分がいた。こうした言葉遣いはものを見る目を曇らせるからと、かつて警戒して使わなかった。

「社会に出る」というとき、その「社会」とは何か。人と人とが関わり合いながら形成されているなにものかではなく、単に「会社」、それもその人が人生の中でたまたま巡り合った特定の会社のことを指しているのではないか。私の理解では家族も「社会」だし、国同士の外交も「社会」である。よく言われる通り、人間は(という言葉でいま、「多くの日本人は」ぐらいのことを意味した)22歳前後で「社会に出る」のではなく、生まれたときから社会に曝されている、と言ったほうがまだしも正確だろう。

あるいは「日本」と「海外」という対立項。現在、日本が承認している国家は196カ国あるそうだが*1、この見方は1:195を対等なものとして見る見方だということになる。

 

……などと書いてみたが、「ものを見る目を曇らせる」とは正確に言うとどういうことなのか、明らかでないところがある。さきほどの叙述の中で私が書いたことは、「社会に出る」の「社会」という言葉が本来もちうる射程よりも狭く理解されがちであるということであったり、あるいは「社会に出る」ではなく「すでに社会に出ている」なのだ、といった命題の真偽をめぐるコメントだ。「日本/海外」については、その分け方が、数的にバランスの悪いものだという指摘をした。

でもそれが〈目の曇った見方〉だ、と根拠をもって主張するためには、もうひと議論必要な気がする。そしてその議論を今の私は持ち合わせていない。むしろそれは怪しい主張だと考えている。曇りのない目とはどのようなものだろうか。「社会に出たら自分のことは自分でしなければならない」はダメで、「会社員になったら自分のことは自分でしなければならない」はいいのか*2。人間がはじめから始めから社会に出ているなら、新生児に「社会へようこそ」と声をかけるのが、曇りなき目を持つ人物のなすべきことなのだろうか。あるいは「海外旅行」と言わず「中国旅行」と言うのが正しく、さらには「中華人民共和国四川省周辺旅行」などと称するのが正しいことになるだろうか。中華思想を体現した名称を無批判に使って良いだろうか(使うべきでないと言っているわけではない)。

あきらかに、言葉遣いを工夫するだけでは片付かない問題がここに残っているように思われる。結局、言われていることの内実を一つずつ検めないとものの姿は見えてこない。こんなことを考えていたのは、たとえば資本主義批判とか、あるいはフェミニズムの語りの中において、言葉は価値判断を多分に帯びている。だからといって不純なものとしてそれを切り捨てる理由にはならないし、また切り捨てることがこの世界にとって大きな損失になるとも思っている。

*1:https://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/area/country.html

*2:これは、後者の方が内容の滑稽さが際立っていいかもしれない