中国語の文法書を1日に10分ちょっと、風呂のお湯を溜める間に進めている。中国語はなんだかんだ去年の春ぐらいからスローペースで勉強してて、なんか使い出があるのかというとそういうこともなく──書きながら思い出していたが、去年ではなくおととしぐらいか? おととしだったわ。2021年4月~9月のNHKラジオ講座のテキストとCDが倉庫本棚に眠っている。倉庫本棚とは、最近手にとってない本を無造作に入れておく専用の本棚、2軍的なものと考えていただければよい。部屋に1基ある。数詞はこれでいいんだっけ? なんの話だったか。おととしから始めた中国語学習は、簡単に言うとフラストレーション解消のために始めたものだった。どんなフラストレーションかというと、中国語の勉強をしていないというフラストレーションである。堂々巡りのようだ。漢字とか中国語の音に昔から惹かれるものがあったので、触れたかったのだ。
なんだか話が長くなっている。何だっけ? それでかれこれ3年目に突入していたことがわかり(前述の通り超スローペースなんだけど)自分でも驚いているんだけど、そろそろ飽きてきたというか駅とかの多言語表示の中国語も少なくとも〈呪文〉ではなく意味を持った記号列に見えてきたし、簡単なTwitter上の中国語投稿(今日も残業だ😇みたいな)なら読めるものもけっこうあるし、続けるためにはより高い目標を立てる必要がありそうだ。なんだけどその目標が手元にない。中国文学や思想で読みたいやつがあるとか、そういうのが目の前にない。たしかに言語そのものへの関心というのもあるんだけど、それも最近は優先度が下がっている。なので正直、最近は中国語学習を中断するタイミングをうかがっている。
文法書をちびちびやっているので、順調に行って終わるの9月ぐらいなんだよね。まぁ1日10分ぐらいなんだから邪魔にはならんのではないの、と理屈では思えるんだけど、ただの趣味で勉強してるだけの人だし、いま自分がいちばんやりたいことにエネルギーを注ぐべきでは(数学とか……)(あと、心理学、経済学、プログラミング、などの「やるべき」こと)という邪念が払っても払ってもしつこく現れてくる。
一方で、学校という装置のいいところは好むと好まざるとに関わらずカリキュラムに沿って一定のコースをこなすことを強いられることで(構文がやたら複雑になってしまった)、つべこべ言わずにとにかくこの本はやり通すことにした方がのちのち自分に感謝することになるのではないか、と思わなくもない。大学時代の勉強は(そして多分今もかなり)、いろんな方面に手を出しすぎた結果どれも消化不良になり、結果として「あまり勉強できなかったな」という感慨につながっているという反省を最近したばかりでもあり、その意見には耳を傾けてもいいように思われる。
とかなんとか。まあ、学ぶべきことが尽きないということと、学ぶ時間が与えられているということとはありがたいことだと思う。なんか唐突に優等生っぽいまとめになってしまった。