楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

知覧でチキンレース

贈与とか儀礼といったものについて知りたいと最近思っている。半年か一年ぐらい、隔週に1回ぐらいの頻度で思っている。これ(贈与とか儀礼)はあくまで社会学なり人類学なりで使われているらしい言い回しであって、そうした学問的アプローチを通じてその対象にアプローチできないかと思案しているからそうした言葉遣いになるというだけの話なのだが、ひとはひとにプレゼントをするし、お祝いをしたりするし、お祝いって不思議じゃないですか? 祝いの最小形態が「おめでとう」と声をかけることだとすれば、それで何か(食べ物や金銭)が生まれるわけではないのに、そんなことを絶えず人はやっている。いや実際はそれが呼び水になって、おいしいご飯を食べに行ったり、どこかに遊びに行ったりするのかもしれないけど。でもそれはあくまで一般論であって、理屈で考えればそういうこともあるのかな、と思えるけど、なんだか雲を掴むような話である気がしてしまう。祝うのは苦手だし、祝われるのも苦手だ。何をされているのかわからないから。ケーキの前でバースデーソングを歌ってもらうとき、どうしたらいいか分からずに固まっていた。毎年それが繰り返された。これには家族との関係、というずっとやっかいな問題が絡んでいるから、今考えたいテーマに照らすといい例ではなかったかもしれない。

他人に何かを与えようという気持ちになることがほとんどなくて、ただその人が何を必要としているかがはっきりしていて、そして自分にそれを提供する余力があるなら提供したいと思う。でもそれって〈与える〉というよりも〈融通する〉に近いことである気がする。メルカリだ。そうではなく、わたしは〈与える〉ことについて知りたい。〈与える〉ことの意味をわかりたい。

最近気付いてしまったんですけど、自分は「与えることなく与えられる」ことにこだわりがあって、そのことで他人を試しているところすらある。これは他人からしたら果てしなく面倒臭いに違いないことで、その意識はかろうじてあるから、本格的におもてに出さないようにはしている。ものの本から得た知識を総合するに、わたしのこのこだわりは養育歴に何かボタンの掛け違えがあった結果なのだろうとぼんやり想定しているけど、具体的にこれだという証拠がつかめたわけではない。ただこのような構えは、社会の中で生きていくのにあまりに不都合なのは確かなのだ。

ところで、今月はなんと1日も欠かさず日記を投稿していた。10何年もネットに日記を書いているけど、意外と初めてのことかもしれない。わかんないけど。