楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

かるかん温泉

近所の中華料理屋に行った。もう何年ぶりかかもしれない。おいしかったけど、しだいに、チャーハンの上に乗った肉あんかけの肉の食感がふわふわしててすり身っぽかったり、春巻の具がほとんど入っていなくて、しかも使い込んだ油の匂いがしたりして、難しい顔になった。このご時世でこの価格で提供できる内容、ということなのかな。うーん。この何年かは「貧しさ」をいろんな場所で実感するようになった。何年か、だ。そんなに長いスパンではないと思う。世の中ってそんなに急に悪くなる? それとも私が以前よりも多くのものが見えるようになったということなのだろうか。

川柳というより、自由詩において比較的よくある気がするけど(と言いつつ、わたしは自由詩をあまり読まないから偏見かもしれない)、読者がテキストを読むときの呼吸とか頭の働かせ方を言外に指定してくるようなテキストが一定割合ある気がしている。見えない指示書があって、その通りに体を動かさないと通してくれなさそうなテキスト。「順路」がある詩歌。順路の案内が見えてくると、それに沿って進む心にわたしはストップをかけたくなる。

設計者の企み通りに体を動かすことの意味を、作品に「体を許す」という言葉でとらえることができた。付け加えておくとこれは一般論というよりは、私にはそう感じられるというどちらかというと特殊性の話です。この話は、最近書いた〈自力で引き返す〉ことにまつわる実感とも関係するかもしれない。戻れなくなること、自分では制御できない領域に入り込んでしまうことへの警戒がいつもある。

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たぶん、身体の自律性みたいなものに対する要求がひとより高いんだと思う。自分の体は自分のものだと大声で宣言して“KEEP OUT”と書いたテープでぐるぐる囲っておかないと、ちょっとしたはずみで侵入されてしまう。抽象的な言葉でしか語れないけどそういう恐れがいつもある気がする。

これは裏返せば、侵入されやすいということは侵入しやすいということでもある可能性が高い。本題とは逸れるけど、そしてこれは自分が自覚していればいいだけのことだけど、でも触れる機会があるときに触れておくべきことだと思った。