自分らしいあり方を私が発見するほど、他人から嫌われていく気がする。これは主には勘違いだろうけど真実も含んでいる気がする、これを感じるのは一度目ではないから。ここで謂う「真実」は事実のことに限らず、自分がものごとを見るときの見方のクセ (core belief 的な) みたいなものも含んでいる。 嫌われるということは、同時に、また別の他人からは好かれる可能性も孕んでいるのかもしれない。
朝から在来線と路線バスで移動して、お墓参りして帰ってきた。あまり意識しなかったけど一発ミスで帰れなくなる乗り継ぎの繰り返しだったな。 小さい頃から、夏休みになると家族で車で帰省するのが常で、父の車に揺られて見ていた景色を今日バスの中から見ているその感じがなんだか変だった。何度も眺めた景色なのに乗り物の部分だけがウソみたいで、コラージュを見ているような違和感だった。
誰もいないその町を歩いたら自分が誰でもない存在になった心地がして、人生が終わった後の世界を動いているようだった。懐かしさはなかったけど、よく来ていた海辺、お盆のあいだ祖母宅に人が行き交うのが、その中に身を置いているのがしんどくて逃げてきた場所だったなあ、好きな場所というよりも逃げ場だったんだなあと過去を遡って理解しなおしたりした。スマホのカメラを構えたら、画面に映った空が青すぎて、仰いだら途方もなく広くて、「空いっぱいの空だ」、と思った。気取っているわけじゃないのに奇妙な表現が口をついて出てくるときがある。
お墓参りに行こうなんて思ったことなかった。石の前に立って、匂いのする棒を燃やして手を合わせて、なんの意味があるものかと思っていた。一口で言うと少しだけ大人になったんだろうと思う。他人の心のことはまだわからないけど、歴史や記憶といったものが確かに存在しているという手触りを感じるようになった。人とのつながりはまだ避けがちだけど、毎年夏に過ごしたこの場所と私はつながっている。
追伸。今回の移動で新幹線が決定的に嫌いになってしまった。理由がどうというより新幹線の中で嫌な思いをしすぎた。そして新幹線って逃げ場ないんだよね。指定席だったし。途中下車も難しいし。轟音で思考力も奪われる。特に帰りは奮発してグリーン車を試してみたのに前からも後ろからも嫌なことがあって四面楚歌みたいになったので1/3ぐらいの時間はデッキで過ごすことになった。 今後はなるべく在来線で移動するようチャレンジしてみる。