楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ちなみに露天商

昨日は。古本屋めぐりをした。半年ぐらいぶり? 余談だけど、「ぶりぐらい」と「ぐらいぶり」のどちらを取るかは永遠に決まらない問題だと思う。どちらにしてもなんか違う気がするから。それなら別の単語のセットを使えばいい。

電車と徒歩で移動して、店に入って十数分ぐらい本を見て、買ったり買わなかったりして出てくる、それを繰り返すだけなんだけど、炎天下ではそんなことすら重労働になる。 3店舗見て、以前は冴えない品揃えだと思えた1店舗で掘り出し物を見つけた。逆に、前にいい思いをした2店舗は品揃えの火力が下がっている気がした。私が覗いた日がたまたまそうだったというだけかもしれない。なにしろ約半年ぶりだ。古本屋は通い詰めてナンボなのかもしれないけど、いかんせん普段の行動範囲の外だから難しい。

そのあと友人とお酒を飲んだ。学生時代のサークルからの付き合いで、今も付き合いがあるのはこの人たちぐらいしかいない。あと数年スパンでときどき合う学部関係の人たちがいるけど。まあまあ楽しく過ごせたけど昼の重労働も響いて、帰宅後は頭が重くて仕方なかった。そのままシャワー浴びて就寝したので日記は書けなかった。

今日は、連休中溜めていた雑事を片付けた。部屋の掃除。わかったことがあって、部屋の掃除が部屋をキレイに保つためにすることだという理解が私の「掃除」理解から抜け落ちている。というか、「キレイ」の観念がないのかもしれない。「べとべと」とか「悪臭を放っている」とかだと明らかに「汚れている」と認識するけど、そうじゃなければまあ平気というか。本当は平気じゃなくて、たまに思い立って普段しない場所を掃除してみると「今まであんなところで暮らしていたのか」とびっくりするんだけど。劣悪な環境で暮らすのに慣れすぎている。生活水準を上げると戻せなくなる、と言われるけれど、それは「よりよい」ことに目覚めることが不可逆的な変化である、という意味にも捉えられる。だとすればそれは大人になることの一環でもあるだろう。維持にお金や労力がかかることはデメリットだけれど、色んな意味でのコストを最小化しようとした結果として「散らかった部屋」みたいなのが現れるのだとしたら、スケールが小さくあることは別にいいことではないだろう。