楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

あけびとして待っている

自主休日……と言いたいところだけど休日らしいことが「部屋の掃除をした」しかなかった。というか私のこれまでの生活において「休日」の意味の半分以上は「平日にできないタスクをこなす日」でしかなくて、その事実関係が、無職になってからのこの時間にも残響しているということだろう。部屋の掃除したり、家計簿入れたり、買い物行ったり、未読記事を整理したり。1週間前にも触れたけど、ほんとうの休日をやろう。自転車でちょっと遠いラーメン屋行って、銭湯に入って帰ってくるやつをやろう。週1でそういうのを自分に用意しよう。

今日も8.75時間眠っていた。そこまで刻むんなら9時間でよくねって思うけど、1/4までの精度には意識的でいたいという。あまり意味はない。睡眠時間自体は別にいいんだけど起きるのがいつも昼なので、朝ごはん食べたらもう昼ごはんの準備して、昼食べて一息ついたら夕食の準備……みたいになってしまい変なことで心が休まらない。一日がすごく短く感じる。

ここに毎日1,000字ぐらい書いてるんだけど、書くことは尽きないというか、毎日一定量書いたら満足はするんだけどあとで「この論点に触れるの忘れたな」みたいに気付くことはいくらでもあるので、本当に私が書くべきことを全部書き終えてついに筆を置くみたいなことは起こらないんだろうなと思う。この日記が完結するとしたら、それは日記外の都合によって(作者が飽きた、忙しくなった、死んだ等)でしかありえないのでしょう。それはそれとしてなぜこの作者は、触れておくべきことをほとんど毎日のように触れ忘れるのだろうか。それはこの日記がいつも下書きなしに書き始められるからだ。そしてそれ以外の書き方──書き続け方──を知らないからだ。

おとといの日記で書きそびれたことなんだけども、作品に対して「いいな」と思うことってタダじゃなくて、その作品に対して肯定的な態度を取ることは(その態度を他人に対して表明するしないにかかわらず)作品の世界に対する向き合い方を肯定することを含んでいるし、ちょっと大げさに言うとどんな作品でも大なり小なり含んでいるところの倫理観を自分の中に取り込むことでもあると思う。これは芸術作品から倫理を学べという話ではなく、どちらかというとその作品が内包している倫理を読み手が見抜いて欲しいという話で、「倫理」というのは個々の芸術作品が意識的/無意識的にかかわらず擁している倫理的な要素、美意識と言い換えてもいいかもしれないけど、要は「何を良しとしているのか」。作品が何を良しとしていて、その何が自分の心に響いたのかを見届けて欲しい。で、そうしたときに、「なんかいいな」で済ませるのって、それは初動として大事な心の動きでありつつ、それだけだと無責任では? という気もしてしまうのであり、それは結局作品を前にして良いとか悪いとか、何とも思わないとかやることがその時点ですでに政治的なことだと意識しているからなのですが。

そういう意味合いにおいて「なんかいいな」の時点でイイネって言うのは、そうせざるを得ない場面というのはいくらでもありつつ、一番怖いというか用心が必要なところでもあるよねと思っている、誰に向けての「よね」なのか分からないが。ここがスキとかキライとか、優れているとかつまらないとかが判明している作品というのは扱いやすいわけです。そうではなくて、自分が何に賛成しているのかわからないうちに賛成させられてしまっている──みたいなのが怖い。そこで、作品と適切な距離を保ちながら考えるために評論の言葉、これはある種のジャンルのことではなくて、作品と同一化せずに、作品を見る体験「について」考える言葉、が必要になるんだろう。(最後強引にまとめた)