楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

光電管巻いて休憩

あるテーマについて書こうとして、詰まって、これは今の自分が書ききれるテーマじゃないんだと思う。日記の枠では書けない。日記の枠で書けることを書こう。あるいは日記の枠で書けるような仕方で書こう。それこそがたびたび難しい。自分が見たことのある何かのように書こうと思わなければ、書けるのではないか。

そこにあるのは技術ではない。いや、むしろ技術しかない。もちろんいまわたしは川柳人の中村冨二が残した「川柳に残されたものは技術しかない」という言葉を念頭に置きながらそれを言っている、というか、書きながら思い出しただけなんだけど何かしらつながっている気がして、川柳に関わっている身としてその名前に言及しないでいるのが難しかったのだ。ところで中村のその発言の意味は審らかにされていないと言われていて、というのも当の発言はある作品集の序文の中にアフォリズムみたいにポロっと出現しただけのものだから文脈もなにもありゃしないということなのだが、まあとにかく思い出したんですよね。予想される言葉のつらなりから逃れる努力が川柳の作句には伴うと思っていて、たとえば「ローソク」ときたら「火をつける」みたいなフレーズが続いてほしいんだけど、そうではなく「からかう」あたりを当てがってみる、みたいなのが川柳的努力だと思っていて、暗黙の期待を裏切るんだけどなんとなく合ってる、みたいな組み合わせを見つけようという努力が川柳の〈土〉になっている。「技術」ってそれのことでもあるのか? と昨日あたりにちょっと思ったんでした。「私」とか、過去の詩とか、そういうものを介さずに言葉と向き合うこと。いや、真偽の確かめようもないことなんだけど。

創造的誤読みたいな言葉はいまでも好きではないというか、自己欺瞞が含まれていると思っているけど、ちかごろ本はずいぶん自分勝手に読むようになった。むかしはこだわりをもって臨んでいた哲学の本も、ほとんど不真面目だと思われるような仕方で読んだりしている。でもいまは哲学サイドの人間だという意識はないし、人生の中に読書があり、読書の一環として哲学書の読書もあるという仕方で単に付き合っている。そこでプロの哲学者が期待するような仕方で読む必要もいまはないと思っているし、論文などならともかく本として出るということはそういう〈外部〉の手にもさらされることを意味するだろう。もちろん作法に従って取り組むことが実はいちばん理にかなっているんだということはさまざまな分野においてあるが、そういう作法に合わせるコストが割に合わないほど高くなることは個人の資質や暮らし向き次第でいくらでもありうるように思うし (人生の中に読書があるとはこのことだ) 、結局は個人の判断で選び取るしかないものだろう。そういう読み方でなきゃゴミをつかまされるだけだ、というほど言語そのものは貧しくもないと思う。

日記に負荷がかかるのはよくない。その瞬間に書けることだけを書くようにしたい。