4/29 (水・昭和の日)
昼に川柳関連イベントがあったので、それ中心のスケジュールで動く。世界史の参考書を買いに遠い本屋へ行き、移動して古本屋で句集(俳句の)を買い、初めての店でラーメンを食べ、また移動してイベントに参加し、帰りにカラオケをして、ビックカメラを冷やかし、帰宅後にラジオの会員限定配信を視聴した。10年前の自分が見たら驚くような充実ぶりではないだろうか。なりたい自分になる、って、実現することもあるんだなと思う。
当時と何が変わったかと振り返ると、生活に余力ができたということに尽きるのだろうけど。当時は生きていくので精一杯だった。いや、今もそうだけど。生きることを手放し運転できている瞬間なんてない。ただ力を振り向けられる先が変わってきたのかもと思う。
4/30 (木)
昼、眠い。ここしばらく疾走していたけど、一度減速したほうがいいのだろうという体調。
『文化系トークラジオ Life』の日記をテーマとした回を Podcast でちびちび聞いている。わたしは日記に関しては自己充足していて、自分が書きたいことを書ける場所が確保されていさえすればいいと思っている。「他人の日記を読むのが好き」というほど読んでもいない。「日記」とは私が書きたいことを書くための場所の別名みたいなものだし、それで満足しているから「日記とはなにか」などといまさら考えてみたいわけでもない。でも「日記ブーム」らしい昨今の潮流の中で、自分が向かっているこれはなんなのかという反省のためというよりも*1、自分がやっていることの周囲にじんわりと色がついてきた感じがしておりその様子について確認しておきたい、大雨が降っているから近くの川の様子を見に行こうじゃないけど、近所が騒がしいから外に出てみている、みたいな感じ。
我関せずみたいな顔をしつつ饒舌になっている。
しかしこういうものを摂取して「日記とはなにか」みたいなことに関する観念を頭に染み込ませてゆくと、やっぱりちょっと書きにくくなるというか、関節が硬くなるみたいなことがありますね。放送中に、確か安達茉莉子氏が日記のことを喩えて「手つかずの自然」という表現を用いていて、すごく的確だと思うんだけど、それと同時に「日記とは手つかずの自然なんだ!」と口にした途端に崩れてしまうものもあるのではないか、とも言わずにはいられない。
日記神秘主義。基本的にわたしは〈知ること〉が何かの足枷になるとは思わないタイプで*2、「影響を受けてしまうから見ないでおく」みたいな言い方に全く共感できないんだけど、日記に関しては潔癖なぐらいそういうものを遠ざけておきたい気持ちがある。日記は何かから学んで取り入れたものというより、生きるために獲得してきた言葉だ、母語だ、みたいな意識があるのかもしれない。