行き先も時間も決めない散歩に出ることはめっきり減った。散歩という行為についていちばん自覚的だったのは大学生の頃で、散歩こそ人生、ぐらいに思っていた。いまも散歩から得られるものは多いが、より「効率的」な代替手段を最近見つけたのでそればかりしている。それは自宅で床に寝そべって、5分のタイマーをかけ、そのあいだ何もしない(もちろんスマホを見たりもしない)ことである。頭の中のメモリを一旦クリアするという手続きだ。その目的にとっては「なにもしない」のほうが強度が高く、歩くと歩くことによる刺激が意識に侵入する。ところで、学生の頃にこれをしなかったのは、単に方法を知らなかったということもあるが、そのような何にも妨げられずにぼーっとしていられる場所が自宅にも学校にもなかったということなのだと思う。人の目がない場所が必要だった。だから外に出て、移動しながら、移動する以外は何もしないということをした。いわばその「船」の上だけが心の平穏を確保できる場所だったのだろう。
歩くとき、同じ道を何度も通っているはずなのに、曲がり角の先に何があるのか思い描くことができない。私の世界把握はいつも網膜に映っている範囲外に出ることがなく、長方形のフィールドが一画面ずつスクロールする昔の RPG のようだ。見えていない部分はまだロードされていない*1。かつて惰性で精神科に通い続けていたときに、抗不安薬*2を処方してもらったことがあり、それを服用したときに「建物の後ろ側が見える」というような体験をして驚いたんだけど、本当はそういう世界で暮らしてみたいという気持ちもある。「みんな」が見ているのがそういう世界であるのならば。
一日、明日からの旅行の準備をする。旅程を立てたり、持ち物を準備したり。旅程を立てるのって自分の中では負担の大きい活動で、公共交通の時刻表を調べたり現地で食事できる場所を調べたり、調べた結果を時系列の中に配置したり、そもそも現地で自分は何をしたいんだっけ?と反省したり、とにかく自分の頭を通して処理しないといけない情報量が多いのですぐにアップアップになる。負担すぎて、旅行へ行こうというときに旅程らしきものを作るようになった時期はまだ 5 年も遡らないと思う。少し調べて、組み立てて、次第に「もう疲れた」となるのでサボって、また調べて……の繰り返し。旅程は頭の中でできていくのではなく紙の上(パソコンの永続記憶の上)でできていく。作る主体はパソコンであり、自分はその手助けをするだけ。
あと、旅程を立てていて実感したのが、「旅行でなにをしたいか」を豊かにすること以上に時間をうまく組織する (compose) ことが重要で、いわば彫刻のように時間に一定の形を与えてあげることが大事なんだと思った。実践的なレベルに落として言うと「あまりムリしないように」「逆に退屈もしすぎないように」「緩急つけて」みたいなことなんですけど。知ってる人はきっと小学生のころから知ってるようなことだと思う。でもなぜこれがイイのか、正しいのかということはよくわからなくて(そもそも実地に移していないから正しいかどうかもまだ言えない気がする)、ただ一定の真実をつかんだ手ごたえみたいなものだけがいま手元にある。