楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

(川柳鑑賞)フーダニットの針が挿さってゆく水風船/川合大祐

宿題があったのを思い出した。

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書き出したら長くなってしまった。ほかに、句集冒頭の「フーダニットの針が挿さってゆく水風船」の鑑賞とか、自由律の句がたくさん入っていることとか、触れたいこともあるんだけどこれはまた機会があれば書きたい。

というわけで一句鑑賞です。自由律の話題のほうはいますぐ書けることがないので、書かないけど、批評会*1できっと触れられるんじゃないだろうか。

この句は五七五の (そこまで奇抜ではない) 変種と見なすことができて、その場合「フーダニットの/針が挿さって/ゆく水風船」と 7-7-8 のリズムにとれる。「そこまで奇抜ではない」と断定したのは、七七五ぐらいなら「尖っていない」川柳でもわりと見かけるかなという印象があり、そこから下五の部分だけいくぶん大胆に字余りさせた形、みたいに処理できるからだ。とはいえ、八音はやはり「大胆に」とは言うべきだと感じていて、五音の壁を勢いで突破しているような印象がある。この点については再度触れます。

「フーダニット」は推理小説用語だが、ここでは音だけの存在として居場所を与えられているように見える。単純にこの語の意味を知らない (知らなかった) 人が多いように思われるというのが主な理由だが*2、それに加えてこの語は音としても耳なじみが薄い。音になじみがなければ意味にもなじみがないことになる。もともとが英語の省略形であるもの*3をさらにカタカナに移す、という手の込んだことをしているためか、存在しない外国語のような響きがある。ふーだにっとと言われても読み手の頭には何のイメージも浮かびにくいのではないか。少なくとも、他の登場人物である「針」や「水風船」より影が薄いのではないかと思う。推理小説に親しんでいる人にとっては逆かもしれないけれど。

そこで (多くの) 読み手にとってかろうじて有意味なのは、フーダニットのフーが(水)風船のふーと響き合うというところであるように見える。〈フーダニットの針が挿さってゆく水船〉と、ロングパスで受けているところがかっこいい。この句は 7-7-8 だと最初に仮定したけど、〈フーダニットの/針が挿さってゆく水/風船〉という 7-11-4 のリズムとしても見ることができるのか。

ところでこの句、〈ずっとしゃべりつづけている〉ように私は感じる。単に22音あって長いし、字数も多い。そもそも字余りしている。また、上・中・下それぞれのパーツ間の切れが弱いというか、上が中を修飾し、上・中が下を修飾するような関係にあるので、句全体が分離困難なひとかたまりであるという感じがする。そして「ゆく水風船」の部分について「五音の壁を勢いで突破しているような印象」と上で書いたけれど、いわば発言の途中で持ち時間が切れて、言いかけのセリフをすみやかに言い切ろうとしている人のような集中力をここに感じる。一度立ち止まれば終わりだという緊張感の中で、時間へ向ける意識が最も鋭敏になる。

日本語の短詩は音数律だと言われることがある。音の強弱や長短ではなく音の数 (五や七) でリズムをとるのが特徴だそうだ*4。その含意は一音一音が均等だということであり、ここに フ/ウ/ダ/ニ/ツ/ト/ノ/ハ/リ/ガ/サ/サ/ツ/テ/ユ/ク/ミ/ズ/フ/ウ/セ/ン というシーケンスは機械式時計のように正確に時を刻んでいくように感じられる。

そして時の進展とともに「フーダニットの針」*5が水風船に深く挿さってゆく。その〈動き〉をこの句は見せている。1音目から22音目まで進むあいだじゅう、川柳がしゃべっているあいだじゅう、針はますます深く挿さりゆく。水風船は破裂しない。常識に反して*6。それが了解可能なのは、刺すではなく挿すという表記のせいでもあるし、挿さってゆく、という、経過を言うための表現が使われていることにもよる。現実がいつも言葉の通りになるとは限らないが、これまで触れてきたような言い回し以外の部分が相当協力して、言葉が言う通りの景を読者に見せることにこの句は成功している。

そしてこの句自体が縦長だ。17音の規格をはみ出した22音でもあるし、文字数にしても18文字ある。つまりこの句のボディが「針」じみている。そのとき、「水風船」が句の末尾にあるのは、体言止めという単なる修辞であるだけでなく、景の中で水風船が物理的に下にあることを意味している。つまり〈フーダニットの針〉が上で、〈水風船〉が下、という構図だ。針の向かう先に水風船がある。

だから、

一読明解、フーダニットの針が水風船に挿さってゆくところを描いた一句である。解説終わり。

と「自解」されているのは確かに正しいのだと思う*7

しかし、基本、縦長である川柳をことさらに「縦長だ」と指摘するのは少しばかげていて、しかしそのように思わされたことには何か眼目があるはずだ。この縦長さは川柳らしさの誇張、川柳自身のメタファーでもあるのかもしれない。それはさすがに考えすぎか。

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*1:ここザブ祭り2026年秋〜句集 千春『こころ』 川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』批評会 、2026/9/21、オンライン。

*2:そしてそういう場合、ネットや辞書などで調べたからといって、あらかじめその語を知っていた人と同じようには読めないものだと思う

*3:英語だと whodunit などと綴るらしい

*4:川本皓嗣『日本詩歌の伝統』所収「七と五の韻律論」を参照。

*5:触れるタイミングがなかったが、フーダニットの針とは要するに「針」だと理解した。「ロンギヌスの槍」が要するに「槍」なんだったら、それと同じように考えてもいいのだと思う。

*6:水の入った風船に針を刺すスーパースロー映像を見たことがある人は少なくないと思う

*7:フーダニットの針が挿さってゆく水風船:「ここザブ祭り」通信その1|川合大祐

上半身は機帆船

夜。とあるきっかけでサバサンドの食べられる酒場に立ち寄って、夕食としてサバサンドを食べていたんだけど周りがうるさくて(酒場なので)、しかも隣で話しているサラリーマンの話がつまらなくてどうにもならなかったので、スマホを取り出して川柳についての文章を1000字あまり書いてしのいだ。何かを書くことによってその場を耐えることが可能な場合がある。読むことはそういう場合において機能しない。必要な注意の量や質が違うのだと思う。川柳の話題は、書くことが定期的に湧いてくるのでちょうどいい。湧き水だ。

話がつまらないサラリーマンについて言及したけど私もサラリーマンだし私は「話がつまらない」以前の問題を抱えているし、それはいいんだけど私以外の人間はみんな話が面白い、少なくともつまらなくはないと思っていたから、話がつまらない人というのを見つけて新鮮だったのかもしれない。つまらなさは面白さの不在ではなく、もっと積極的に自らの匂いを放っている。

特に中学生のころ、自分のプライベートをクラスメートなどに見られるのが怖かった時期がある。いや学校生活はプライベートじゃないんかいと思う人もいるかもしれないが、当時はそういう語彙で区別できていなかったものの、〈学校生活〉と〈私生活〉はかなりはっきりと分離していた。そのころ私は学校の授業が終わったら自宅へまっすぐ返って2ちゃんねるなどを見る生活に明け暮れていたんだけど、プライベートというのはそういう姿を見られたくないということでは必ずしもなく(もちろんそこも見られたくなどなかったが)、外を歩いているところやコンビニにいるところすらも見られたくなかった。

それを思い出したのは、今の自分にも同じ気持ちがまた芽生えているのに気付いたからで、会社の外で会社の人に会いたくない。退勤して近くのセブンでフライドチキンを買って食っている姿を見られたくない。見られたら気まずいねというレベルではなく、見られないように駅までのルートを変えるぐらい、見られたくないと思っている。

まぁ私の人生、大なり小なりそんな感じで生きてきたものだけど、ここしばらく「克服」したかと思っていたものが再発したから、生きることがいちばんきゅうくつだった中学生時代のことなど思い出してしまったんだろう。特にオチとかはない。

とっくり共寝

なにか書きたいことがあった気がしたけど忘れた。夕食に麻婆豆腐を作りました。中国物産店で買った青い花椒が鮮烈で、最初、自分の知ってる花椒の相場からしてこの 2 倍くらい入れてちょうどいいくらいかなぁ(控えめのつもり)と思いながら使ったんだけど、結果、この 1/2 の量でも十分だったかも。苦みも強い。

川本皓嗣『俳諧の詩学』を昨日から読んでいる。知識を与えてくれる本というのはいい。そして安心して読める。その安心の所在は、実は本という形式が持つ〈長ったらしさ〉なのではないかと思った。「意味」という言葉の話を昨日少しだけしたけど、その点で言うとこの本にも「意味」という言葉は出てくる。まあ詩についての本でなくてもだいたいどんな本でも出てくるという意味で、出てくる。でも多用はしない。そのおかげで、テキストが胡乱な感じにならずに済んでいると思う。また、立てられた論点があとで詳しく敷衍されたり、いつか回収されたりするだろうと期待できるから、ちょっと輪郭のはっきりしないことや断定的なことを言われても身を乗り出さないでいられる。短いと広告とかスローガンみたいになっちゃって、それをただうっとりと楽しんでいればいいのなら世話はないが、批判的に見ようとすると読み手側の負担が果てしなく大きくなる。

朝、出かけるまでの時間帯の精神衛生がとんでもなく悪くて、数分に一回のペースで42たいと心の中で思っていた。私の場合、この言葉は「逃げたい」の言い換えに近くて、何から逃げたいかといえばこの思い通りにならない世界から逃げたいのだと思う。忘れる、見失う、し損ねる、空間的にも時間的にも秩序がなく、いま自分がどこにいてどんな文脈に取り囲まれているのかという了解がすっぽり抜けていて、「できない」という不能感ばかりがリアルで、認知症の苦しみってこういうののもっとひどくなったバージョンなのかなあと考えたりした。

みんなの衒学

体調も精神衛生*1もまだ戻ってないけど、少しずつ次の展開が見えてきたような気がする。帰りに喫茶店で本を少し読んだ。3ページぐらいしか読めなかったけど。

まだ頭のはたらきが全然良くなくて、これから書こうとしていることがあるのに何を書こうとしているのかを言うことができない。「何」ということがいちばんむずかしい。5W1Hのうち、 when, where, who ぐらいはまあまあ扱えて、 why と how も案外なんとかなって、 what だけは手に負えない。そんな所感。

私の経験世界において「不自由」こそがリアリティであり、ありありと存在を感じられるものである。「自由」は不自由の不在としてあり、だから意識しにくい。「不自由」は手で触れるが、「自由」は触れず、頭で納得するしかない。

意味という言葉の多義性について書いたことがある。

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結局これを書いたあとも「意味」という言葉への引っかかりは継続している。このときの記事では「意味」は多義的だからよくないという趣旨の主張をしたけど、この言葉を使うからダメというよりも、何かを論じようというときにキーワードを固定して、キーワードに多くのものを積載して語るのが「論理的」なんだみたいな態度もしくは通念が短詩界隈の「批評」の風通しを悪くしているのではないかということを最近は思うようになった。そこにあらわれる顕著な例が「意味」なのだと。一つの語に多くのものを託すよりも、異なる言葉で同じことを語れることのほうが豊かだと思っている。

実のところ、言うほど「批評」とかも読んでいないんだけども。だから、私の訳知り顔の語りに苛立つ人がいることも想像に難くない。

なんでこんなに「粘着」(ネットスラングの)するんだろうと自分でも思うけど、テキストの中を自由に歩き回りたいという欲求が自分の中にはあるのかもしれないと思った。言い換えると、その内容をすみずみまで把握したいし、納得したい。そうしたときに「意味」みたいな意味のはっきりしない語彙が出てくると急に視力が悪くなった感じがする。山登りで浮き石を見つけたときのように、この足場に頼っていいだろうかという警戒が生まれる。

まあ詩って私が心地良いとするスタンスからは対極に近い性質のものだと思われるので、そりゃコンフリクトも生まれるよねということなんですが……今後もほどほどに付き合っていきたい。

*1:「メンタル」という言い方の収まりが悪いのでよい言い換えを見つけたい

細かしい情死

体調崩した。一日寝込むまではいかなかったけど、ずっとうっすら頭痛くて。週末の家事(掃除や家計簿記入)もできなかった。寝たまま過ごしても苦しいばかりだと知っていたので、こういうときは出掛けたら強制的に体調が整うのではないかと思って無理やり外に出たけど、ほとんど苦しむために外に出ただけのような格好になった。体調が悪いと脳の活動も低下して、網膜は生きてるけどモノはろくに見えていないような状態になる。スーファミのスターフォックスぐらい単純なオブジェクトでできた世界に見えるし、フレームレートの低い世界に見える(参考↓)。

https://www.youtube.com/watch?v=akNfno3lXrc

ちなみにスターフォックスはちゃんと遊んだことないです。

うるさい店でごはんを食べて、楽器(MIDIキーボード)を少し見て、もう帰った。移動中、街の雑音がすでにしんどいのでイヤホンで音楽を流していて、ムーンライダーズの「夏の日のオーガズム」*1はやっぱりいいなあと思いながら、この人たちがこの世からいなくなっちゃったら自分生きていけるんだろうか……と急に考えて泣きそうになってしまったので、体調が悪いだけじゃなくてメンタルも依然悪いんだなぁということを自覚した。ライブとか行ったことないし自分が今聴いてるのも40年ぐらい前に制作された録音物なんだが。でも誰かがこの世にいるとかいないとかといったことが、その手触りが自分の中で最近リアリティを持ち始めたように思う。

今週も先が思いやられるよぅ。ただ今日ひさしぶりに一冊の句集を読み終えることができたし、川柳を作るために頭を働かせる時間も持てたので、事態は少しずつ変化していると思いたい。

*1:聴くたび、ムーンライダーズで一番好きな曲だと思う。ところで「一番好きな曲」というクラス分けは不思議で、全曲分のランキングを作ったわけでもないのに「一番好きな曲」を選出できたりする。一番というのは何かの比喩なんじゃないかと疑ったりするけど、「思い入れのある曲」とは少し違う気がするし、「一番いい曲」とかでもない気がする。「私が推したい曲」というのが近い気がしていて、つまり、「この曲を私が推そう」という契機がここに含まれている。

世の常は陰文か

土曜日。予約していた心療内科へ行く。問診されて記入式のテストやって採血されて出てきた。私は腕の血管が隠れている?らしく、あらゆる採血のときに担当者の手を煩わせてきたんだけど、その旨を申告したらかえって思い切りが良くなって(?)意外とあっさり完了した。問診で自分が何に困っているかを話そうとしたんだけど、自分でも驚くほど具体性がなく関連性も乏しい話をぽつりぽつりと話すことしかできなくて、医師が興味なさそうな顔をしているのを……別に、何か話芸で相手を魅了するみたいなことがいま重要なのではないことは知っているけど、にしてもあまりに手応えのない時間だった。午後に川柳結社の勉強会で少しスピーカーとして話したんだけど、そのときはある程度「普通」にしゃべれてたと思うし、おおむね意味のあることや場の関心に沿ったことを話せていたのではないかと思うところ、あの問診の時間は一体何をしにきたのかと思わずにはいられない。自分のことは自分が一番分かっていないということがあるなあ。

せっかく Claude の有料プランに入ったのだし……ということもあって、 Claude にプログラムを書かせて遊んだりしていたんだけど、で、その仕事ぶりには感心するばかりなんだけど、結局書かれたプログラムの内容を解する能力が使い手の側にないと、ただ強大な力を手に入れてその力をコントロールするすべがないという状態になってしまうなあと思った。あと AI に仕事をさせているはずが、主客が逆転して AI に使われているような(操作しているのは自分なのに?)変な気分になることもあった。おいしいところは AI がもっていって、私は AI のやりたいことをサポートする役割に回る……言い出したのは私のはずなのに。もしかして疎外論ってそういう話ですか?(ぜんぜん違うかも) まあ、とりあえずプログラムは自分で書くほうが楽しいなと思った。 Claude が書いたコードを読んで理解するとかの仕方で勉強には使えると思う。

自分がやりたいことに対して週休2日では足りないなー。もちろん休養という意味でも。