楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

忍び足の進行役

「大学に行ってよかったですか?」みたいな色々な答えかたができる問いについて、例えば「今もときどき会う友達ができたのでよかったですね」「図書館で専門書が読み放題だったのでよかったですね」などなどの仕方で一面を切り出して「よかった」「よくなかった」と答えるのは、きわめてありふれた無難な応じ方でありつつ、ある意味で不誠実であるとも思う。だってそれは大学に行くことの一面でしかないから。よかったこともあったし、よくなかったこともあったし、それらをひっくるめてどうなのかを元の疑問文は問うているのだから、途中式みたいなのだけ出して満足するのではなく「いやぁそれは難しいですね」と応じる方がまだしも誠実ではあると思う。

このことに別の見方があるのは知っている。でももうちょっとこのスタンスで話を続ける。

発達障害当事者研究』を読んで獲得した言い方だけど、定型発達者は置かれている状況を意味として〈まとめあげる〉のが高速である、と思っている。そういう仮説でいまはものごとを見ている。暑いときに暑いと言える、喜ぶべきときにうれしいと言える。それはリアルタイムな状況把握のたまものだ。

この話には、昼にこういうことを考えていたという脈絡がある。

歩いてきた。暑いとは感じなかったけど汗をかく。そして帰ってきたあとのほうが汗の処理やら体をクールダウンする必要やらで「暑い!」という言葉が出てきた。暑さは感覚ではなく状況認知を表現する語彙だ。

https://x.com/elmman/status/1793853071463956575

わたしは自分が感じていることを自覚するのが苦手で、それこそ「暑い?」と聞かれたときに考え込んじゃうことがしばしばあるんだけど、これは自分の内なるものにアクセスするのに障害があるとかというよりは、外界を含む状況認知が貧しいということなんだと思う。

https://x.com/elmman/status/1793854812200882505

最初の話に戻って、〈ふつうのひと〉は、「大学に行ってよかったですか?」という問いに「誠実な」答え方をしない。そこはまとまりあがらない。大学にまつわるよかったことやわるかったことを断片的に言うのだ。そして、それはぽつりぽつりとした発話であるよりは、発言者の「今」につながるストーリーとして流暢に語られる。端的な把握の代わりにストーリーが流通する。これはなんだろうか。そして、自動的にまとまりあがる把握とそうでない把握のちがいはなんなのか。

佐々木健一『タイトルの魔力』

佐々木健一『タイトルの魔力  作品・人名・商品のなまえ学』、中央公論新社中公新書)、2001年。299pp.

www.chuko.co.jp

最近、川柳の同人誌に参加するということがあり、そのさいに(川柳の連作を構成することの困難もありつつ、それ以上に)連作にタイトルをつけるという課題にほとんど手も足も出なかった経験があったので、この機会にアクセスしてみた。

新書だけど300ページ近くあるし、文字がぎっしり詰まっていて読み応えがある。作品のタイトルというテーマは当時類書がなかったらしく(今はどうなのかな)、哲学・美学から言語学、歴史、レトリックまで、広範囲の話題について著者が調査した結果をもとに論述が組み立てられている。これだけ幅広い素材を、一貫した論述の流れの中に位置付けながら一冊の本を構成できたのは、著者の学問的基礎体力あってこそだよなあ(本書の発刊時点で単著がすでに7点出ている)。これが820円 + 消費税で入手できるのはめちゃくちゃお値打ちだと思う。

巻末には文献案内がついており、タイトルを扱った既刊論文のレビューになっている。取り上げられるのはすべて海外の文献。このパートだけでも約20ページに及んでおり(しかも文字サイズが本文より何ポイントが小さい)、こういう言い方もなんだけど2024年の今ならここまでできなかっただろうなあと思ってしまう。

論旨について。本書の中心的な主張を簡潔に述べた箇所は、このあたり。

タイトルは、作品「について」、それをしかじかのもの「として見よ」という指示を行うメタテクストである。 (p.261)

これは〈タイトルは作品の解釈のヒントになるものだ〉みたいな素朴な了解とも合致するところがあり、驚くようなものではない(が、もちろん人を驚かすような結論イコールいい結論であったりするわけではないので、これはけなしているわけではない)。同時に、このタイトル概念が歴史的に近代に属するものであることも丹念に跡付けられており*1、結末部ではこうしたタイトル概念の衰退の兆候について指摘されていたりする。

実用的には、上記のタイトル理解の話と、11章で抽出される「提喩型」「隠喩型」のタイトルの2類型のところが収穫だったかな。

本書の核心ではないんだけど、前半で展開される「なまえ」に対する考察にも心ひかれた。好きになった人の名前を知りたくなる(実体→名前)とか、名前だけを知っている植物の実物を見たくなる(名前→実体)みたいな例が紹介されており、それ自身が身に覚えのあるもので説得力がある。私の無味乾燥な言い方だと伝わらないけど、生き生きとしたいい文章で描写されてるんですよ。「名前なんてただの記号でしょ」という言葉で片付けたくなることってあるけど、それではとても済ませられないほど、名前って人間の実存に食い込んでいる、謎めいたものだなあと思う。

*1:これに関連して、本書では「タイトル」がかなり狭い意味で用いられている点にも注意。たとえば商品名みたいなものとはハッキリ区別されているし、作品の単なる呼び名とも異なるとされている。

松本俊彦『世界一やさしい依存症入門』

松本俊彦『世界一やさしい依存症入門』、東京:河出書房新社、2021年。四六判、232pp.

www.kawade.co.jp

良書でした。良書なので「言いたいこと」があまりない。「14歳の世渡り術」シリーズの1冊で、いわゆるヤングアダルト向けだけど、依存症を知るための最初の一冊として大人にとっても有意義な読書になるのではないでしょうか。私はそうだったし、マスコミの不適切報道が今も問題になっていることなどを鑑みると、まず学ぶべきは大人のほうだとも言える。

依存は薬物(例えば覚せい剤)や依存性のある行為(例えばゲーム)のせいというよりも「歪んだ人間関係」が根本要因だ、という見方で本書は一貫している。その説明は、本書が一冊かけてしているところなので、実際に読んでもらうのがいいだろう。「依存」についていつのまにかインストールされていた単純化した見方を、この本は豊富な事例を通じて丁寧に描き直してくれる。

あと、内容と関係ないんだけど、本書は「依存」に「いぞん」と濁音のルビを振っている、というのは小さな発見だった。手元の国語辞典では「いそん」で項目が立てられているから「いそん」って言わなきゃいけないかなと思ってたけど、専門家が「いぞん」って言うならそれでいいか、と変な得心をした。

脂質は思想犯

書くことがいろいろある気がする。書こうと思ったことのすべては書けない、半分も書けない、それが日記の宿命であることは知っているので、全部書けることをあらかじめ期待しないが、書けるだけのことは書いていこう。

言い訳という言葉が嫌いだ、というようなことをBlueskyであるかたが言っているのを見て、不意に思い出した。わたしもある年齢までは「それは言い訳だ」と言われて育ってきたのではなかったか。私だけではないかもしれない。私が子供時代を過ごした20~30年ぐらい前は、あるいは過ごした地域は、いまわたしが過ごしている空間よりも、大人たちが人の言葉や考えに対して聞き分けがなかったような気がする。「気がする」話でしかない。当時のことは実のところあまり覚えていない。ただ思い出すのは、大学4年生のときに自動車教習所に通っていて、ある日運転技術がまるで身についていない私に対して教官(っていう呼び方もなんか権力っぽいですね)から何か問い詰められたときに「言い訳かもしれませんが」と話し出して、しだいに泣きそうになっていたという記憶なんだけど、もうそのときには「言い訳」をすることがその時点で負け確であることを知っていたということだし、なのにそういう仕方でしか応答できない自分が悔しかったということだし、仮説でしかないんだけど私は人生のどこかのタイミングで「言い訳」をすること、人に口答えをすることを封印したのかもしれない、と思った。何か反論や弁解じみたことを言えばそこに「言い訳」というレッテルを貼られて封じられてしまう、それなら口を噤もう、と思ったんじゃないか。重ねてのお断りになるが小さい頃の記憶があまりないので具体的なエピソードが出てくるわけではない。あくまで仮説だ。自分の過去のことに対して仮説を立てるというのは変な感じだけど、そういう手段を講じてまで手を伸ばしたいなにごとかがそこにはある気がする。この「言い訳」という言葉に私のインナーチャイルドがビビッドに反応した感じがあるのだ。

もうひと話題だけ。毎月恒例の精神科に行ってきた。前の日記で〈視線が合わない〉話をしたように、最近は対人関係忌避の傾向が強まっていて、メンタルヘルスにも少し悪影響を感じていたんだけど、その話には触れなかった(ここにはこうして書いているわけなんだけど、でもあくまでこうした〈一般〉のフィルターを通した記述どまりで、具体的なことには触れないだろう)。診察の時間になる前から、このことは話せないだろうなという予感、というかけっこうありありと感じられる心理的抵抗感があった。昼に『「助けて」が言えない』という本の感想を上げたばかりで言うのもなんだけど、パーソナルな悩みは私は主治医にも相談できない。ただ、別の話、近いうちに退職を控えていることは伝えることができた。別にこれは悩みではないんだけど、私の中では比較的パーソナルなことがらに属しており、誰にでも言うわけではないことの一つだった。そういうふうに他人との距離感にはグラデーションがある。診察を終えた後、自分が受付のスタッフと目を合わせているのに気がついた。少し浮上してきたかもなあ。これは引きこもりたい気分のときに素直に引きこもったのが良かったのかなと思う。

松本俊彦編『「助けて」が言えない』

読んでた期間: 2024/4/27~2024/5/8

松本俊彦編『「助けて」が言えない  SOSを出さない人に支援者は何ができるか』、東京:日本評論社、2019年。B6判、263pp.

雑誌『こころの科学』の特集を増補して書籍化したもの。援助者(医療従事者や支援団体の所属者)の視点から、「援助希求」をテーマに編まれている。題材は多岐にわたっており、自殺を扱った4章、薬物依存を扱った5章、認知症を扱った10章が私は興味をひかれた。個々の題材についてはマスコミを通じてなんとなく知っていたけれど、その「常識」の誤りを教えられるところが多かった。
たとえば自殺なら〈「死にたい」と言っている人は本当には死なない〉みたいな偏見だとか、薬物依存なら世間的なスティグマといったものがあり、こうした世の中に流布した誤解によって適切な援助が妨げられていることが指摘されている。セルフスティグマという言葉もあるらしい。これは世間的なスティグマを内面化したものと理解できるだろう。
だから、「援助希求」がテーマに設定されているけれど、これは当事者の問題というよりはあくまで社会の問題なのだ、という基本スタンスで本書では扱われている。「はじめに」でも、〈当事者がSOSの声を上げられるように教育しよう〉といった最近増えているらしい考え方に対する違和感が表明されている。
そういうわけで、本書は〈なぜ「助けて」が言えないのか〉を解明する本ではない。とはいえヒントはたくさん載っている。読み終えてみての感想としては、「助けて」が言えない人は至るところにいるということ。そして、そもそも「助けて」は一般的に言いにくいこと、本人にとって負担になることだ、という点をまず認める必要があると思った。だから、巻末の鼎談にあるみたいに〈知らないうちに助けられている〉社会みたいなのが実現できるといいんだろうな。

自分の関心に引きつけて感想を書いたけど、それぞれの記事は執筆者が各自の判断で内容を決めているもので(おそらく)、内容には広がりのある本だと思います。

源河亨『感情の哲学入門講義』

源河亨『感情の哲学入門講義』、東京:慶應義塾大学出版会、2021年(2022年4刷)。235pp.

www.keio-up.co.jp

「感情」を軸として、哲学や経験科学も含めた議論や知見を紹介する本。大学の授業テキストとして企画されており、半期の授業回数に合わせて15章立てになっている。

感情の特徴づけから「なぜ人々はホラーを好んで見るのか」みたいな進んだ話題まで、幅広いトピックに触れられているのが強みで、初めて触れる分野だったので勉強になった。

一方で、限られた紙幅の中で多くの話題を扱おうとしたためか、個々の話題の扱いは手短で物足りなく感じた。あくまで感情研究の成果を紹介するというスタンスなら受け入れやすいんだけど、著者が主体になって論じているような書きぶりになっているため、ところどころ独断的に議論を進めているように感じたり、つまみ食い的に見えるところがあった。

前書きにあるように本書は哲学入門も意図しているということだけど、論者としての一貫した立ち回りとか、厳密さみたいなものも哲学にとっては大事だと思っているので、そうした価値がなおざりにされている点は残念だった(過去に哲学科で学んでいた者としては)。

でも半期の(それも一般教養の)授業で扱える分量・内容となると贅沢な望みなのかもしれない。文献案内はしっかりついているので、続きは本格的な本で勉強してねという立てつけなんだと思う。