なんか地味に体調がよくなく、痰が絡まるのと、自宅でゆっくりできる状態になるとふしぶしの痛みが出てくる。ふしぶしの痛みはリモートワークしてた頃に恐らくストレス由来で慢性的にそうなっている時期があったけど今回はどうなのかな。良い刺激悪い刺激ひっくるめて刺激の多めな時期ではあるかもしれない。睡眠が足りていないことは明らかなので早く寝ようとは思う。でもどうしてかいつも同じ(遅い)時刻にふとんに入る結果になってしまうんだよね。あと皮膚科疾患の状態が近年改善傾向にあり、ステロイドを減らしている影響もなくはない気がする。いや、そのつもりで見ればなんでもそう見えてくるってだけかな。いま、一年のうちで最も過ごしやすい時期だと思うんだけど仕事なんてしてていいんですかねー。風の気持ちいい場所に行きたい。
こぞりて代品
通勤時間で TRICERATOPS『THE GREAT SKELETON'S MUSIC GUIDE BOOK』(1998) *1を聴く。これは高校生の頃から聴いてるアルバム。トライセラトップスについては一年ほど前に書いたことがあり、恋人が自然にできる人の作る音楽、というような表現をした。
音楽の話というより、もっとわかりやすく歌詞の話だけど。高校生当時のわたしの周囲にあった音楽の大半は、モテない人が作る音楽か、モテてることを隠している人が作る音楽のどちらかであって(なんちゅうひどい区分法だ)、そのどちらにも魂を預けきれなかった私は〈モテてることを隠さない人が作る音楽〉に向かったのだった。そんなことよりも曲がいいんですけどね。トライセラトップスはほとんどがいい曲なんだけど特にこのアルバムは全曲いいです。
歌詞に引っかかりがあって、1曲目「PARTY」はタイトルからも感じ取れる明るい曲なんだけど、いわゆるBメロの部分で
僕のことを知らないでとやかく言うけど
翳りのある一節が不意に挟まり、でも直後で
でも仲間に入ろうぜ ルールはないのさ
ノリの軽い適当なこと(と、とりあえず受け取れる)をまた言って軌道修正している。
2番の冒頭は
あらゆる世代がもっと良くなるはずなのに
気付けない奴は今日も増え続けてる
じれったさみたいなもの、そして突然に広すぎる視野で物事を見ている和田唱が出てきたりする。
サビの冒頭は
君がいれば それでうまくいくのさ
ありがちで安心できるセリフなんだけど、これに続けて
これが僕の夢 そしてやるべき事なんだ
「やるべき事」? やたら俯瞰的な視点がまた出てくる。浮わついたことを言っているかと思えば急に真顔になってボソボソひとり言を言い始めて、こういう一言で片付けられないところは今思うと影響を受けているのかもしれない。一つの文章で一つのことだけを言おうとしなくていいんだみたいなことで。
*1:このアルバム名をそらではたぶん言えない
肘綴じる
台所の流しを掃除しながら物思いにふける。自分の中に「うれしい」という感情が生じうることに最近気付いたと書いたけど、行動分析で言うと「消去」されていた行動なんだろうな、ということに思い当たる。小学生ぐらいの頃、自分が感情を表に出すとよいことがなかった気がするのだ。暴力のような、あからさまにしんどいことではなかった気がするけど、なんらか「弱化子」として機能しうるようなことだったんだと思う。詳しいことは覚えていないけど(この時代について思い出せることが限られていて、記憶が抑制されるほどいやなことがあったんじゃないかと自分で勘ぐってしまうが、そういった形跡があるわけでもない)。それで、私は感情を表現することをやめ、同様に自分が思ったことを人前で言葉で表現することもやめた。もっとも、私が今ここで感情と呼んでいるものは、一般的な慣習から見て「感情」という言葉に当てはまるような姿をしていなかったのかもしれない。そのへんもまるっきり推測である。証拠にできるような記憶がそもそも乏しいので。ジェームズ゠ランゲ説じゃないけど、表出しないということは、当人がその感情を自覚する糸口をも塞ぐことで、そうやって自分でも自分の感情の所在がわからなくなっていった。口をつぐむことは自分にとってマイナスになるものを遠ざけるだけでなく、プラスももたらしてくれた。そういう自分を、周囲は「何を考えているかわからない人間」として面白がってくれる、あるいは「そういうキャラ」として場所を与えてくれるようなところもあったと思う。
話す、ということがある程度安心してできるようになったのは、高校、大学に入ったあたりで、話すといういとなみを、周囲の人が物心ついた頃からコツコツ実践して積み上げてきたのを、私はこの頃ようやくスタートラインに立ったのかもしれない。よちよち歩きだ。
別に詳しい身の上話をしたいわけではなかった。「消去」という整理がしっくりきて、嬉しくて書き出しただけだ。トラウマティックな出来事がこれといってなくても、人はスポイルされうるものだと思う。その頃身につけた態度は未だに自分の中に巣を張っていて、ほとんどどんな状況でも、口を開くのはこわい。それはあながち「考えすぎ」でもなく、実際話してみて「しゃべらなければよかった」という感想を持つことは今でも少なからずある。いわゆる「認知の歪み」的なものの帰結なのかもしれない、その気配は濃厚だけど、でも同時にこれが自分の生きているリアルなのだから、少なくとも一旦は肯定したいじゃないかという気持ちもある。
スケープゴート溜
昨日はとある会合へ。詳細は伏せるけど、中身の濃い時間でした。まだ泳げそうな気がしてきた。
これでエネルギーを使い切った観はあり、今日は植物園に足を伸ばしたりごはんを食べに行ったりしようかなとなんとなく思い描いていたものの、結局半径2駅ぐらいの範囲で買い物を少ししたり、カラオケをしたり、コーヒーを飲んだりといった過ごし方で終わった。最近、コーヒーを一杯は飲まないと一日を終えられないなという気持ちが起こることが多い。自分で淹れたやつとかでなくてもドトールのコーヒーとかでいいんだけど、ただ缶コーヒーやプラカップのコーヒー飲料*1では満足しない気がする。自分の舌の分別を強調したいのではなく、ただ世の中でコーヒーと括られるものの範囲が広いから消費者側で線を引く必要があるということなのだと思う。
まだ体調が万全でなく、考えがあまり広がらない。とにかくたくさん寝るのがいいかな。
*1:コンビニコーヒーではなく、コンビニの冷蔵食品のコーナーに置いてあるやつ
先付けメントスコーラ
日記の投稿がまばらになる。最近はオフラインの手帳(体調ログと行動ログ)もめっきり怠っている。なにかとやることが尽きなくて。自分にとって日記はなにもない時間を埋めるためのものだったから。
そういうわけで前回からの出来事もせいぜい Bluesky を辿ることで断片的に思い出せる程度で、ただ今週は仕事に必要な馬力が大きくてプライベートで何かするという感じではなかったかもしれない。毎日自分を使い切ってた。かろうじてできたこととしては、唐揚げを作ったことだろうか。揚げ物は面倒だとなんとなく思ってしまうけど、下ごしらえはビニール袋の中でできてしまうし(要するに、鶏肉と調味料と片栗粉を入れて一体化させるだけだ)、揚げる工程もタイマーで時間を計ればほとんど「見ているだけ」なので、調理中は意外とのんびりしている。ただし、一人分のご飯を用意するだけなのにどうしてこんなに……と思うほど調理器具が散らかるので、洗い物をするときにテンションが下がるという難点はあった。なんであんなに道具が必要だったんだろう。洗い場は広ければ広いほどいいです。
「仕事」と「プライベート」ってどうして区別されるんだろう、へんなの、と 20 代のころ思っていた気がするが、別に職業人としての時間が「仮の姿」だとかではなくて、でもやっぱり仕事中の自分とそうでない時間における自分は異なる行動原理で生きていて、異なるライフストーリーを平行でたどっている「別の宇宙の自分」だという気はする。両者は別々の世界に生きているが、ときどき影響を与えあったり、片方がもう一方の暮らしを圧迫したりする。
涼しかったので片道20分かけてマクドに朝食をしに行ったり、自転車の空気を入れてあちこち走り回ったりした。本当はこういうことが年中できないといけない。できてほしいではなく、こういうことができないと健康が維持できない。もっと器用にならないと。夏でも冬でも体を動かす方法を見つけないと。
2 件の病院に行き、薬が用意できるまでの時間で足を伸ばして実家用のおみやげを買い、書店で『「集合と位相」をなぜ学ぶのか』『イネ科ハンドブック』(写真が鮮明でうれしい)を買い求め、自転車で実家に行った。産まれていた甥がいた。多少抱きかかえたりした。赤ちゃんって本当に何もできなくて、ヒトって生き物はこんな未熟な状態で生まれてくるものか、と新鮮に驚く。
銀行 (ATM) とドラッグストアに寄って帰る。自転車で出身中学の横を通る。中学時代は暗黒だったなあと思う。数年前なら、なんだかんだで懐かしさのほうが勝ってたけど、今日は夜だったからかあまり近寄りたくない場所のように思えた。いつもと違う道を通ったので、結局よくわかんなくなって、遠回りして車通りの多い国道を通って帰った。
自分がどんな感情を具えているのかわからない、という考えを長らく抱いていたんだけど、うれしいという感情はどうやら持っていることが最近わかった。というより、近年になって開発されたのかもしれない。ほかに私の身に降りかかりがちな感情的動揺というと、苛立ち、がまっさきに挙がるが、これは私から生まれた感情というよりも外から私に取り憑いた受苦のようなもので、別カテゴリであるような気がする。感情ではなく情動と呼べばまだ口が利けそうな気がするが。
ファミリーマートの限定ファミチキがどこに行ってもない。どこにもないと言えるほど何軒も回っているわけではないけど。売り切れているというより、ホットスナックのコーナーに現物はもちろん値札もなく、そもそも売っている気配がない。ただ店の外観にはファミチキの宣伝がでかでかと掲げられており、「ある!!」と叫んでいるのに入店するとなく、ホラーじみている。
短歌、次の一手(次に読むやつ)を打ちあぐねているので、木下龍也、岡野大嗣、枡野浩一でも読んでみようかなと思って書店で手に取ったものの、私は短歌を読みたいというわけでは特にないんだよなと気付いて棚に戻した。ちょっとまえまでは短詩のことなら何でも教えてくれという姿勢でいたけど、最近はすっかり選り好みしています。ある程度一人で歩けるようになったということなのかなと思う。今まではガイドが必要だったけど、短詩の世界を自分で散策できるようになってきた。と同時に、散策したいという気持ちがいまはそんなにない……。足場固めに全力を傾けるタイプで、落ち着ける場所が一旦できるとそこから動きたくない性分なんだよね。
埴輪金物店
仕事。朝のメールチェック。フィルタによって振り分けられた受信フォルダごとにメールを開けていき、打ち合わせの時間が近付いてきたのでキリが良いところまでと、受信フォルダA, B, C があるうちの B まで見終わったら一旦切り上げようと思う。だけどその「キリ」ってなんだ? メールは開いたら自動的に既読ステータスになるので、「どこまで見たか」が後からわからなくなることはない。ここには「キリ」をつけるために「キリ」になるものを探すかのような本末転倒がないだろうか。一方で、自宅での私の生活は「キリ」とは縁遠いものであり、 A をしている途中で B のことを思い出してやり始め、そこからさらに C に枝分かれしていってかなり遠回りしてから A に戻ってくるような動き方のほうが多いのだ。そしてそれが自分に合ったやり方だとも感じている。そんなシームレス人間である自分が自己目的化するぐらいこだわっている「キリ」とはなんだろうか。ときに私はそういうものにすがっている。
外界に対して自分が応答できる状態/そうでない状態、という別があることに気付く。応答するとは、感想を持つとか感動するとか考察するとかそういうことだ。目に映ったものに対して、自分が自分として反応できるような状態*1。強い光が目に入って眩しがるのも日本語では「反応」と言えるけれど、でもこれは「自分」が反応しているのではなく肉体が反応しているだけだ。意思はなく記憶だけで動いている肉体。「自分」が起動している状態、それが、本を読んだりものを考えたりするには必要だと知った。さらにその上に、川柳が生まれるには、その「自分」を一定時間起動しっぱなしにしておくことが必要だ。その「自分」とやらを〈もの思う主体〉と表現してもたぶん外していないけど、でも別にそういう〈作用〉こそが自分の本体であるわけではないから、気が進まない。語感の問題として*2。肉体を離れたら幽霊になってしまう。幽霊は川柳を書かない。