楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

ひんやりと侍講

このところ朝は、ふとんから出たら排尿・うがい・水をコップ一杯飲み、ふとんに逆戻りしてスマホで YouTube を 10 分ぐらい見てから改めて起き上がるという流れになっていたんだけど、 YouTube やめてラジオを流すことにしてみた。流し聞き。なんで起き抜けに YouTube 見てるのかと考えてみたところ、それは頭を回転させるためで、「頭を回転させる」ってちょっと生硬な言い回しだけど、「考えるため」というよりもただ空回りさせている、ネット回線のスピードテストみたいに特に意味のないデータを通しているみたいな感じ、エンジンふかしてる感じなのです。意味があるのかは知らない。なんでラジオに切り替えようと思ったのかも忘れた。ラジオはまあ隙あらば聞きたいんですよ。ラジオを聞いている人でありたいから。でも私は、同時に脳に入力できる刺激量が限られているので、「ながら聞き」みたいなことができないんですよね。以前は多少できた気がするんだけど最近はてんでだめ。ラジオが〈従〉のつもりでいても〈主〉になっちゃう。洗濯物を畳もうとしても、「ラジオに邪魔されながら洗濯物をたたむ努力をしている人」みたいになってしまう。

何の話だっけ。 YouTube は没入するためにあるので、何かに没入する必要のないときは見る必要がないねという話でした。

午後から天気が崩れてところにより大雨が降るかもよ、とラジオが言っていて、天気予報アプリを見たら確かに昼過ぎから降水確率40%とかになっていたので、ほほう、と思いつつ、でもその時間帯の予報は雨ではなかったので(?)、結局晴れるんと違うか、と思いつつ、出かける準備をしているとまたラジオから昼過ぎに天気は崩れるという声が聞こえてきたので、外に干していた洗濯物を部屋の中に入れて、除湿機とサーキュレータの電源を入れて出掛けた。結果的に雨は降らなかった(うちの地域は)ので、賭けに負けたと言えるが、そもそも賭けみたいなものから可能な限り降りるのが私の最近の生き方なのだった。マジで。雨が降りそうだから洗濯物を外で干さない、こういう判断ができるようになったのはそう昔ではない。降水確率が一定あれば部屋干しをする、部屋干しするならそれで洗濯物がちゃんと乾くような設えをする、そういうのが理に適った態度だけど、かつての私は「当たりを引く」みたいな価値にかなり傾斜していたんだと思う。「外れを引かない」も。当たりを引き、外れを引かない、この両面が揃ってたらかなり「正解」っぽいけど、実際は万事を賭け事として捉えていただけなのでポリシーでもなんでもなかったのよな。

生まれはストーム

暑い。暑さと湿気と混雑によるストレスは人を奇行に走らせる。電車の中で音をガンガン出してスマホゲームをプレイするとか。イヤホンをつけてスマホを見ながら自転車を運転するとか。そういう事例を見た。私のことではありません。私はといえば、これも暑さのせいで帰りの電車の運行が滞ったので、ごはんをつくるのはやめて自宅付近の麺屋で限定メニューを食べて帰ろうと思い立ったものの、限定メニュー売り切れてて、この世の終わりみたいな顔になりながら(このあたりの感情の動き方が子供時代と変わらない)隣駅まで歩いて、すき家でチーズ牛丼をテイクアウトしようと思ったんだけど、いざ来てみたらテイクアウト用の注文端末が店外にあって、蒸し暑、蒸し暑、涼しい店内で注文したいから店内で牛カレーでも食べようと思って入店したんだけどすき家店内の独特の匂いってあるじゃないですか。吉野家とも松屋とも違うやつ。あれが苦手で、なんか今日はダメだという気分に支配されて、そのまま店を出て、最寄り駅まで戻って中華料理屋でチャーハンと水餃子を食べて帰った。ストレスにやられているときは意思決定が極端に難しくなる。理性が死んでいるのでうまく妥協した判断とかができなくて、本心から食べたいと思えるものしか選べなくなる……つまり何らかの意味で刺激の強いものを、ということになると思う。中華料理屋は本当は店先に表示されていた冷やし担々麺が目当てだったんだけど、いざメニューを開いたら影すらなくて、ああもうと思ったけど入店して深々と着席したあとだったのでさすがに引き下がれなくて、そこで食事をしました。カンパリソーダを一杯だけ飲んだんだけどそのあとぐったりしてしまって、ほんとお酒は飲まないほうがいいね。50%程度の確率で後悔する。

素揚げ大典

昼に食べたラーメンの汁を冷蔵庫で保管しておいて、夜に加熱して利用したらお腹を軽く壊しました。お腹を壊しそうなことをするとちゃんとお腹を壊す。以前よりも素直な体になった。喜ばしいことだと思う。ものごとが予測可能になるのは喜ばしいことだ。

「加熱して利用」ってなんやねん、と自分でも書いてて思うので具体的に書いておくと、その汁を温めがてら、牛丼屋でテイクアウトした牛皿をその中で煮て、解凍ごはんにかけて食べたということ。考えてみたら冷凍ごはんが古かったのが腹痛の原因かもしれないぞ。一時期、米を炊くときに固定で1合炊いて、余ったら冷凍するという習慣にしていて、そうしたら冷凍ごはんがみるみるうちに増加していって、だいぶまえにこしらえた在庫がまだ残ってたんですよね。

いや、こんな食生活いつまで続けられるのかというか、切り替えるべき時期はもう来ているはずなんだけど。

貯金が毎月微減しているので、家計簿にこだわりたいなとか考えているんだけど、今頼っている Excel 家計簿という現実解をどけてくれる選択肢がなかなか見えてこない。いやお金を貯めるためにまず家計簿にこだわるというのは、参考書マニアの大学受験生みたいな滑稽さがあるかもしれないけど。楽しみはあったほうがいい。

土曜日は川柳イベントのために大阪に日帰りで行ってて、大阪に日帰りしたらこのぐらいは疲れるよねと予想される程度に疲れたんだけど、この大移動は山へ行ったときと似たような効果があって、翌日、体が動かしやすくなるんだよね。たまに限界付近まで(肉体的に)疲れるというのはやっておいたほうがいいんだろうなあと思う。

耳目総取り

一週間ぐらい書いてませんでしたね。主に川柳の課外活動で日記を書く時間が取れなかったというのが理由だとは思う。「思う」って、自分のことを説明するときにあるまじき語尾だけど、自分のことは自分でもよくわかっていないのだ。

今の生活、仕事が忙しいというわけではないけど、フルタイムで働いていれば活動時間のほとんどを職場で過ごすことになるし、帰宅してから自分のためのことをしようと言っても「ごはんを作って食べる」「日記を書く」ぐらいをしたらもうタイムオーバーになってしまう。他のことをやろうとしたら上記のいずれかまたは両方を断念しないといけない。

あと、少し前に言及した心療内科で投薬をはじめていて、アトモキセチン。書いていないのはこれの影響もあるような気がしている。一口で言うと「日記を書かずにはいられない」みたいなのがなくなった。一週間後にはまた別のことを言っているかもしれませんけども。全体的に心が落ち着いて、世界が静かだな、という感じがするけど、別の見方をするとテンションが(かつてにもまして)低くなったんじゃないかと思っている。

なにか心に引っかかることがあっても「まぁどうでもいいか……」と諦めてしまうことができるようになった。確かに、そこに無理して対処しようとすることは苦しみを増やすことになるので(苦しみってのはそういうものだ、というのが仏教の教えの一つだったと思う)、その場を離れて風呂にでも入るというのは賢い身のこなしなのかもしれないが、気分のベースラインが低いことや自己肯定感が低いことは以前と変わらないので、ただただ元気のない人になっている気味もある。

とりあえず最近アクティブなことをしてなさすぎるので山に行きたいですね。梅雨も明けてきた気がするし。

(川柳鑑賞)フーダニットの針が挿さってゆく水風船/川合大祐

宿題があったのを思い出した。

elmman.hateblo.jp

書き出したら長くなってしまった。ほかに、句集冒頭の「フーダニットの針が挿さってゆく水風船」の鑑賞とか、自由律の句がたくさん入っていることとか、触れたいこともあるんだけどこれはまた機会があれば書きたい。

というわけで一句鑑賞です。自由律の話題のほうはいますぐ書けることがないので、書かないけど、批評会*1できっと触れられるんじゃないだろうか。

この句は五七五の (そこまで奇抜ではない) 変種と見なすことができて、その場合「フーダニットの/針が挿さって/ゆく水風船」と 7-7-8 のリズムにとれる。「そこまで奇抜ではない」と断定したのは、七七五ぐらいなら「尖っていない」川柳でもわりと見かけるかなという印象があり、そこから下五の部分だけいくぶん大胆に字余りさせた形、みたいに処理できるからだ。とはいえ、八音はやはり「大胆に」とは言うべきだと感じていて、五音の壁を勢いで突破しているような印象がある。この点については再度触れます。

「フーダニット」は推理小説用語だが、ここでは音だけの存在として居場所を与えられているように見える。単純にこの語の意味を知らない (知らなかった) 人が多いように思われるというのが主な理由だが*2、それに加えてこの語は音としても耳なじみが薄い。音になじみがなければ意味にもなじみがないことになる。もともとが英語の省略形であるもの*3をさらにカタカナに移す、という手の込んだことをしているためか、存在しない外国語のような響きがある。ふーだにっとと言われても読み手の頭には何のイメージも浮かびにくいのではないか。少なくとも、他の登場人物である「針」や「水風船」より影が薄いのではないかと思う。推理小説に親しんでいる人にとっては逆かもしれないけれど。

そこで (多くの) 読み手にとってかろうじて有意味なのは、フーダニットのフーが(水)風船のふーと響き合うというところであるように見える。〈フーダニットの針が挿さってゆく水船〉と、ロングパスで受けているところがかっこいい。この句は 7-7-8 だと最初に仮定したけど、〈フーダニットの/針が挿さってゆく水/風船〉という 7-11-4 のリズムとしても見ることができるのか。

ところでこの句、〈ずっとしゃべりつづけている〉ように私は感じる。単に22音あって長いし、字数も多い。そもそも字余りしている。また、上・中・下それぞれのパーツ間の切れが弱いというか、上が中を修飾し、上・中が下を修飾するような関係にあるので、句全体が分離困難なひとかたまりであるという感じがする。そして「ゆく水風船」の部分について「五音の壁を勢いで突破しているような印象」と上で書いたけれど、いわば発言の途中で持ち時間が切れて、言いかけのセリフをすみやかに言い切ろうとしている人のような集中力をここに感じる。一度立ち止まれば終わりだという緊張感の中で、時間へ向ける意識が最も鋭敏になる。

日本語の短詩は音数律だと言われることがある。音の強弱や長短ではなく音の数 (五や七) でリズムをとるのが特徴だそうだ*4。その含意は一音一音が均等だということであり、ここに フ/ウ/ダ/ニ/ツ/ト/ノ/ハ/リ/ガ/サ/サ/ツ/テ/ユ/ク/ミ/ズ/フ/ウ/セ/ン というシーケンスは機械式時計のように正確に時を刻んでいくように感じられる。

そして時の進展とともに「フーダニットの針」*5が水風船に深く挿さってゆく。その〈動き〉をこの句は見せている。1音目から22音目まで進むあいだじゅう、川柳がしゃべっているあいだじゅう、針はますます深く挿さりゆく。水風船は破裂しない。常識に反して*6。それが了解可能なのは、刺すではなく挿すという表記のせいでもあるし、挿さってゆく、という、経過を言うための表現が使われていることにもよる。現実がいつも言葉の通りになるとは限らないが、これまで触れてきたような言い回し以外の部分が相当協力して、言葉が言う通りの景を読者に見せることにこの句は成功している。

そしてこの句自体が縦長だ。17音の規格をはみ出した22音でもあるし、文字数にしても18文字ある。つまりこの句のボディが「針」じみている。そのとき、「水風船」が句の末尾にあるのは、体言止めという単なる修辞であるだけでなく、景の中で水風船が物理的に下にあることを意味している。つまり〈フーダニットの針〉が上で、〈水風船〉が下、という構図だ。針の向かう先に水風船がある。

だから、

一読明解、フーダニットの針が水風船に挿さってゆくところを描いた一句である。解説終わり。

と「自解」されているのは確かに正しいのだと思う*7

しかし、基本、縦長である川柳をことさらに「縦長だ」と指摘するのは少しばかげていて、しかしそのように思わされたことには何か眼目があるはずだ。この縦長さは川柳らしさの誇張、川柳自身のメタファーでもあるのかもしれない。それはさすがに考えすぎか。

www.kankanbou.com

*1:ここザブ祭り2026年秋〜句集 千春『こころ』 川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』批評会 、2026/9/21、オンライン。

*2:そしてそういう場合、ネットや辞書などで調べたからといって、あらかじめその語を知っていた人と同じようには読めないものだと思う

*3:英語だと whodunit などと綴るらしい

*4:川本皓嗣『日本詩歌の伝統』所収「七と五の韻律論」を参照。

*5:触れるタイミングがなかったが、フーダニットの針とは要するに「針」だと理解した。「ロンギヌスの槍」が要するに「槍」なんだったら、それと同じように考えてもいいのだと思う。

*6:水の入った風船に針を刺すスーパースロー映像を見たことがある人は少なくないと思う

*7:フーダニットの針が挿さってゆく水風船:「ここザブ祭り」通信その1|川合大祐

上半身は機帆船

夜。とあるきっかけでサバサンドの食べられる酒場に立ち寄って、夕食としてサバサンドを食べていたんだけど周りがうるさくて(酒場なので)、しかも隣で話しているサラリーマンの話がつまらなくてどうにもならなかったので、スマホを取り出して川柳についての文章を1000字あまり書いてしのいだ。何かを書くことによってその場を耐えることが可能な場合がある。読むことはそういう場合において機能しない。必要な注意の量や質が違うのだと思う。川柳の話題は、書くことが定期的に湧いてくるのでちょうどいい。湧き水だ。

話がつまらないサラリーマンについて言及したけど私もサラリーマンだし私は「話がつまらない」以前の問題を抱えているし、それはいいんだけど私以外の人間はみんな話が面白い、少なくともつまらなくはないと思っていたから、話がつまらない人というのを見つけて新鮮だったのかもしれない。つまらなさは面白さの不在ではなく、もっと積極的に自らの匂いを放っている。

特に中学生のころ、自分のプライベートをクラスメートなどに見られるのが怖かった時期がある。いや学校生活はプライベートじゃないんかいと思う人もいるかもしれないが、当時はそういう語彙で区別できていなかったものの、〈学校生活〉と〈私生活〉はかなりはっきりと分離していた。そのころ私は学校の授業が終わったら自宅へまっすぐ返って2ちゃんねるなどを見る生活に明け暮れていたんだけど、プライベートというのはそういう姿を見られたくないということでは必ずしもなく(もちろんそこも見られたくなどなかったが)、外を歩いているところやコンビニにいるところすらも見られたくなかった。

それを思い出したのは、今の自分にも同じ気持ちがまた芽生えているのに気付いたからで、会社の外で会社の人に会いたくない。退勤して近くのセブンでフライドチキンを買って食っている姿を見られたくない。見られたら気まずいねというレベルではなく、見られないように駅までのルートを変えるぐらい、見られたくないと思っている。

まぁ私の人生、大なり小なりそんな感じで生きてきたものだけど、ここしばらく「克服」したかと思っていたものが再発したから、生きることがいちばんきゅうくつだった中学生時代のことなど思い出してしまったんだろう。特にオチとかはない。