昼に一本書いたんだけど、事前に (平日に) 用意した話題も消費しとかないと鮮度が落ちるのでもう一本書く。
今日は午前中皮膚科。待合室にいるあいだ、山に行きたいなとか自転車に乗りたいなとか考えていたんだけど、診察を終えて薬局で薬を受け取る頃にはお昼時となって、さらに昼に書いたように痰だか鼻水だかで咳込むこともあったので、激しい運動はまだ早いかぁ……、と思い直した。たぶん賢明。自転車に乗りたいという気持ちが起こるくらい回復できたのがまずはうれしい。そういえば「激しい運動」という言葉への距離感? を長らく測りかねていて、呼吸困難になるぐらいやらないと「激しい」って言えないのでは? と思ってたんですよねずっと。息切れはするけど体がいいぐあいに暖まって「楽しかったね」と言えるような運動では「激しい」の名に値しないのではないかと。まあ語感の話なんですけど。あと、歩行が「運動」に入るという認識もなかった。 METS とかの文脈だと確かに運動だけど、運動会で散歩の種目とかなかったから。
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川柳の句集なんかを読むときに、私はバーっと目を通して「これは面白い」と思える句を見つけたら時間をかけて向き合う、みたいなやり方をしていて、全部の句に平等に時間を割いたりはしてないし、それどころか読んだことすら憶えていない句がたくさん残るようなことになるんですけど、それが良いのか悪いのかというのは問いうる。平等の観点もあるけど、それ以上に鑑賞の態度として、ファーストインプレッションでいわば足切りをするというのは読み手のバイアスを強化することにもなりうる。
でも、時間が限られているなかで (労働と生活「以外」の時間しかないというなかで) 作品集を読むというときに、ほかに方法がないではないかという気もする。みんなどうしているのだろう。「そんなもんよ」と言われればそうなのかもしれないけど。みんな本を読んでいないことをごまかしつつ生きているだけなのか。それとも読んでいるのか。
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SNS で短歌のことを調べたりするときに、歌人がフルネームではなく「名字+さん」で言及されていることが多い、というかそのほうが普通だ、ということがあって、いつもわずかに引っかかっている。短歌の世界の構成員が全体として大きな〈身内〉の形をなしているように感じるからだ。そこにパブリックとプライベートの区別はどうやって引かれるのかと思う。
短歌に限ったことではなくて、私が以前はよく覗いていた研究者界隈でも同じ現象は見ることができる。というか「業界」と呼びうるものはだいたいそうだろう。業界全体がひとつの〈世間〉の姿をなしている。ただ、これはあくまで「どこにでもあることだ」という話であって、単によくないものが「どこにでもある」だけかもしれないのだ。集団の内と外の境界を意識する機会、その境界付近で緊張する機会、そういうものが与えている秩序がこの社会にはあると思うんですけど抽象的すぎて話がまとまりませんね。