楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

「個人としての見解を述べる立場にない」

3月22日、衆議院文部科学委員会より。簗和生氏のいわゆる「種の保存」発言*1について、同じ認識を今も抱いているかという質問に対する回答。質問者は柚木道義氏。国会会議録検索システムにはまだ議事録が作成されていないので、PolityLinkにリンクします。テキストは自動書き起こしなので不正確な部分が発生しえますが、次の引用部分は正確だと思います。

https://politylink.jp/clip/2160/

〔…〕私が答弁する内容は全て文部科学副大臣としてのものでありますから、例えばこれは個人としての見解ですなどというように、個人としての見解が別のものとして存在するということは成立し得ないということであります。従いまして、個人としての見解を述べる立場にないと答弁をしてきております。

大臣だからとか政務官だからという理由で「個人としての見解」を答えないという答弁の回避方法はよく見る。これはその一例です。

ちなみに、この直前には「内心の自由」を持ち出して答弁回避を試みているくだりもあり、そこも気になるのだが、憲法について勉強不足なので今回はそのくだりがあると触れるにとどめる。

「個人としての見解を述べる立場にない」に訴える答弁回避は、聞くたび毎回疑わしいなあと思うんだけど、モヤモヤしつつもどこがおかしいのか指摘できずにいた。

とりあえず、三段論法の形に直してみる。

  • 【前提1】簗和生氏は文部科学副大臣として答弁している〔ゆえに、文部科学副大臣としての見解しか語れない〕。
  • 【前提2】〈「種の保存」認識*2を簗氏がいま抱いているか〉という問いに対する答えは、個人としての見解に属する〔文部科学副大臣としての見解ではない〕。
  • 【結論】ゆえに、〈「種の保存」認識を簗氏がいま抱いているか〉という問いに簗氏は答えることができない。

こうすると疑わしい箇所が浮かび上がってくる。

前提1に関しては、文部科学副大臣の役職にある者が国会で発言するとき、常にその役職者として発言しなければならないわけではないように思う。「個人的な見解ですが」と前置きをして語ればよいのではないか。

また、そもそも、〈文部科学副大臣として答弁する〉ということがどういうことなのかもよくわからない。それは〈個人として答弁する〉こととどう違うのか。語っているのが簗氏本人であることには変わりはないのだから、どちらでも同じことではないだろうか。

さらに、〈文部科学副大臣として〉と〈個人として〉が対置されるのにも恣意的なものを感じる。〈政治家として〉〈国会議員として〉〈自民党員として〉〈個人として〉など色々な立場を簗氏は(そして他の国会議員も)兼ね備えているわけだが、その中で〈個人として〉が選び出されるのはなぜか。

その答えは、「個人」が〈いっさいの立場を離れた立場〉、ゼロ立場のようなモノとして考えられているからだろう。しがらみのない存在みたいな。とすると、これは〈立場あり〉と〈立場なし〉の対立のシネクドキとして理解することができる。でもそれは誤りだよね。国会で発言している以上、大臣でなくても国会議員として、あるいは政治家として発言しているという前提から逃れることはできないだろうから、なんの色もついていない「個人」として国会で発言するということはありえない。簗氏が示唆しているのは、彼がかりに文部科学副大臣の役職に就いていなければ「種の保存」認識について答えただろう、ということだが、それがありそうもないことは容易に想像できる。要するに、この二項対立自体がつくられたものであるという感じが非常にするわけである。

前提2についても違和感を拾ってみる。まず疑問なのは、ある見解が「副大臣としての見解」と「個人としての見解」のいずれに属するかの振り分けを行う権限が誰にあるのかということだ。言い換えると、「種の保存」認識が個人としての見解に属し、副大臣としての見解に属さないと言えるとしたら、それはなぜなのか。

そこには強い理由がないと私は思う。むしろ、簗氏が個人として抱いている見解は、自動的に、副大臣として抱いている見解の一部をなす。すなわち、次の推論が成り立つと考えられる。

  • 【前提1】簗和生氏は「種の保存」認識を抱いている。
  • 【前提2】簗和生氏は現在の文部科学副大臣である。
  • 【結論】現在の文部科学副大臣は「種の保存」認識を抱いている。

これに対してありうる応答は、「ある認識を抱く」ことと「国会でその認識を語る」こととの間にはギャップがある、というものだろう。当人は差別的な認識を抱いているかもしれないが、それを文科副大臣の立場で語るべきではない。問題になっているのは上掲の結論部からさらに

  • 【結論'】現在の文部科学副大臣は「種の保存」認識を国会で語るべきだ

という結論を引き出せるかどうかであって、それは引き出せないのだ──と。

だが、それは簗氏側の都合であって、われわれの関心ではない。上記の反論が言っているのは、次のいずれかであるが、

  1. 簗氏は「種の保存」認識を抱いているが、副大臣という立場上それを公言できない。
  2. 簗氏は「種の保存」認識を抱いていないが、副大臣という立場上それを公言できない。

われわれの関心は簗氏が「種の保存」認識を抱いているか否かだったはずである。それを公言できるかどうかは副次的な事柄である。柚木道義氏が国民の関心を代表して質問したのだとすれば、簗氏は(自らの意図するところであるかどうかは別として)その関心に応えなかったと言うこともできる。

そもそもこういう重大な事柄(時の文部科学副大臣が差別的な考えの持ち主であるとしたら大変なことだと私は思う)について語れない状況があるとしたら、それ自身が問題にされて然るべきことだとも思う。

 

(2023/3/25 0:42 「簗和生」を「簗和夫」と誤記していたため修正。)

*1:差別発言で正確に書き写すのもつらいので、詳しく知りたい方は「簗和生 種の保存」などで検索してみてください

*2:「種の保存」発言で表現されている命題内容ぐらいに理解してください

無限のクリシェ

雨が降ってた。目覚めたら頭が痛くて、起きられなかった。仕事の日程に余裕があったので、昼まで寝ることにした。午前半休の届出は出勤してからした。わたしの職場は手続き的なことにルーズだ。それが楽だと思うときもあるが、明文化されていないルールが当然のような顔をして不意に現れたり、ルールだと思っていたことがいつのまにか廃止されていたりということもあり、ほとんどすべての情報は公開されているべきだと考えている私にとってはやりづらい部分もある。あと、いつ誰が退職するかもほとんどの場合知らされない。やめた後に社内公示で知ることになる。

起きてすぐにパスタをこしらえた。ホタルイカと菜の花のリングイネ。起きがけで何も入っていない頭で料理をすると、細かい部分に意識が向く。菜の花の切り方とか、ホタルイカの量はパックの半分でいいだろうかとか、リングイネが十分茹でられていないので茹で時間を足そうとか。そうした一つ一つのポイントを冷静に見極め、そのつど最善の選択肢をとろうと努力する。

職質グルテン

在宅勤務で立ち机を使っている。基本的には立った状態で仕事して、たまに小さいイス(スツール的なもの)に座るという考え方で仕事環境を構築している。あるとき私は思った。じつは座っている時間のほうが多かったりして。そうなると、立っている時間は仕事ははかどらず、ただ疲れているだけかもしれない。スツールじゃなくて、背もたれのあるくつろげるイスで仕事した方が能率も上がるかもしれないし、プログラミングの勉強するのにもいいかもしれない。

じゃあ自分が仕事をしている模様を固定カメラで撮影して、実際にどのくらいの時間立っていてどのくらいの時間は座っているのか調べてみよう。というわけで仕事でも使っているWebカメラを適当な場所に固定して、カメラを通して自分の姿勢がわかるような場所に設置した。Windowsのカメラアプリで録画をかけて3時間過ごした。

仕事を終えて、少し買い物してきたあと、夕食のシチューを煮込みながらビデオの分析をした。結果は、立ってる時間 > (休憩で)寝てる時間 >>> 座ってる時間 ぐらいの比率だった。休憩時間が長いのには今日は目をつぶろう。立ってる時間が一番長いのは自分でも意外だった。今日は特別に調子よかった気もするけど。とりあえず環境を見直すのは見送ることになった。

自分のことをカメラで定点監視するのはおもしろくて、わたしは仕事中にかなり独り言を言うんだけどそれが客観的に(自分の頭蓋骨を通さない音として)聞けたのがよかった。こいつボソボソしゃべってるなと。もうちょっと自分の声を作ってもいいかもねえ。

もち米興業

春分の日。某所に遊びに行って、そのあと手帳を買いに行って、手帳を買わずにクリップボードを買って、トルコ料理屋でケバブを食べて帰ってきた。クリップボードは手帳の代わりに自分に合ったスケジュール管理アイテムを自作するための材料です。

自分は普段元気がなさすぎるなあと思う。きのう思い立って、気分記録表的なものをつけることにした。1時間刻みで、そのときの気分を-5~+5ぐらいで評価して記入する。自分が何に対してどのように(ポジティブに/ネガティブに)感じているのかを外部化して眺めてみようという、認知行動療法の何かの本で見た活動である。記入してみたら──仕事が忙しくなって夕方ぐらいに早速挫折したのだが──、その日は気分が -3 から 0 の間で推移していた。朝起きたときは 0 なのだが時間が進んでいくとマイナスになって、その後低調が続くという流れだった。そうか、わたしは普通に暮らしていて気分がポジティブになることがないんだな、という発見があった。

とはいえ、必ずしも「直さなきゃ」と思うわけではなく、基本低調であっても幸せな生というものはありうると思うが、それはそれとして自分は色々我慢して生きているなという気づきも──これも繰り返し気付き直していることであるが──あった。そして「色々」とは主に、「言うこと」だ。言おうとして飲み込んだ言葉が私の生涯には何万とある。そんな言い方をすれば、そりゃ誰にでもあるよと言われるかもしれないし、誰にでもあることと私も思うが、それにしても何かを口に出そうとするのを阻止する〈内なる校正者〉〈内なる監督〉みたいな存在が私の場合は厳しすぎると思う。そしてその現象を掘り下げたとき行き当たるのは「本当の自分を出して嫌われたら耐えられない」といったありがちな信念だったりする。

いまは認知行動療法をやる時間ではないから長々とは書かないが、この信念はいくつかツッコミの余地がある。まず「本当の自分」とは何かということで、そこで表出されんとしている情報なり人物像なりが「本当の」という言葉に値するとどうして当人が決められるのかという質問が可能である。自分の頭の中にあってまだお蔵出しされていない情報を特権視する理由がどこにあるかという話。私が言葉を発するか発さないかにかかわらず、すでに「私」は何らかの形で表出している。制御しようもなく。そして「耐えられない」というのも根拠がなくて、嫌われたら嫌われたでスッキリするかもしれないし、そうではないかもしれない。少なくとも自分の記憶を辿るに、誰かに嫌われたことをはっきり認識して、それが原因で体調を崩したとか精神的な健康を悪化させたといった経験はない。

などなど。なんだか書いていることが大学生ぐらいの頃と変わり映えしないなぁと思うけれど、自己理解の努力はいままでサボってきたことなので今更と思わず続けたい。こういうことも仕事の負担がたまさか減った状態でしかできないんだよなぁ。やはり環境を変えるべきだと思う。

両面赤道

急に思い出すんだけど、中学生のころ私は入学後1年ほどだけ部活というものに所属していた。といっても、途中から部活に来なかっただけで、退部手続きをしたわけではないから、名簿上は3年生までいたのかもしれない。そこで、学期末になると成績表を顧問の先生に見せることになっていて、なにか毒にも薬にもならないようなコメントをもらうんだけど、あの慣習って今思うと何だったんだろうと思う。部活の顧問に成績表を見せる必要はないと思うし、それが当然のこととしてまかり通っていたのもおかしいなと思う。ちなみにこの顧問は、文化部だったのだが、ある日なにかよくわからない理由をつけて部員たちにスクワット100回と階段の上り下りを強制するということがあった。大人になった今持ち合わせている言葉で表現するなら「しごき」である。私は1週間ぐらい筋肉痛になった。これほど筋肉痛が続いたのは、私の生涯ではほかに大学1年生のときに徒歩で山手線一周をしようとした(残り2駅ほどでギブアップした)ときのみだと思う*1。その「しごき」はその後行われることはなかったが、どこかで情報が伝わって大人たちが問題にしたからなのかもしれない。そんなことも今思い返してようやく思い当たることだ。

きょうは実家に来ている。呼ばれたから来ているだけで、なんだか気乗りせずあまりいい予感がしなかったのだが、どうも今日はとりわけ居づらい日みたいだ。食事中に仕事のこととかプライベートのことを両親から聞かれるのだがそれが心底わずらわしく、とにかく話をしたくないという気分になる。自分でもよくわからない。両親についてこれといって嫌な思い出があるわけではないのだが、プライベートを明かすのが本当に嫌だという気持ちがある。

*1:ちなみに、何年か後に再チャレンジした時は成功し、筋肉痛にもならなかった。初回は余裕をカマしてジュンク堂に寄り道し本を買い込んだりしたのが敗因だろう

豪傑シャンプー

昼食を買おうと近所のコンビニまで歩いているとき、自分が歩いている地面が平らでないことに気付いた。平らでないことが「見えた」と言うのが正確かもしれない。アップダウンがある。今歩いてきた道はわずかに上り坂になっているし、その先の踏切がある部分は少し盛り上がっている。そして踏切からもう一つ先の踏切へ至る脇道はかなりはっきりと窪んでいる。これらすべては目視で確認できる程度に(測定器具に頼らずとも判る程度に)明らかなことがらである。それを今私は、「気付いた」。

仕事において平穏な日がしばらく続いていて、ようやく疲労状態から回復して、外界のいろいろなことが目に入るようになった──この体験は、そういうことを示しているだろう。しかし、何かに「気付いた」と称するのも少しおかしくて、毎日のように歩くこの道が傾いていることを、実のところ前から私は知っていた。傾いてるな、と言葉にして思うことすらあったかもしれない。にもかかわらず、今日の私の発見は、間違いなく「発見」として語るにふさわしいものだという実感もある。

疲れているときの私は、あの道が坂になっていることを「知っていた」が、坂になっていると「思って」はいなかった。傾きを感覚器官でとらえてはいたが、傾いていることが見えてはいなかった。世の中の道はすべて地図アプリみたいにツルツルしている、そういうことにしていた。

これは一種の自己欺瞞だ。知っていることと思っていることの乖離。そして、〈知っていること〉を〈思っていること〉がオーバーライドできるならば、自己欺瞞とは何かを上書きするという性格を備えていることになる。ある認識を打ち消して別の認識に置き換えるのではなく、ある認識の上に別の認識を覆い被せる。