楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

モモンガ風のモディリアーニ

仕事の出張で、ある県へ来た。知らない土地のバスに揺られながら、なぜか高校生の頃の〈あの感じ〉がよみがえっていた。脈絡はない。私は曇り空の下、自転車をこいでいる。高校入学を機に父親に買ってもらった自転車だ。定期的に雑巾などで拭いてメンテナンスするんだぞと言われて、面倒臭そうな顔をしたら何か失望したというようなことを言われた気がする。具体的には覚えていないが、それなりにショッキングな出来事、それなりに不愉快な出来事であったという感触のみが手元に残っている。高校の頃のことを思い出すときはいつも曇り空である気がする。そして自転車。通学路の、あの水路沿いの長い直線の道。それを走るときの、次々と未来をつかみ取るようなはやる気持ち、何もなくて何もない日の繰り返しだったあの頃の、ときめきに似た、いやときめきそのものだったかもしれない、生きることそのものを覆う全体のトーン。それとなんの関係もない、当時行ったこともない土地で、バスに揺られながらそれを追体験した。なんでだろう。内臓の状態や、血の巡りが偶然うまく一致すると同じ気分が再現されるのだろうか。「気分」ではない、生きることの感触そのものだが。それにしても不思議なのは、日付としていつ経験したのかも定かではない「感じ」を、思い出したとき、追体験したときに、確かにあのときの感じだという確信を伴って肯定できるということだ。そのときの「感じ」と今の「感じ」を比較できるわけでもないのに。何と何を比べて同じだと言っているのだろう。きっと比較などしていない。ただ端的に、あのときの感じが再生されるのだ。ただ頭の中で再構成されただけのものだとしても。