楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

じっさいのところ、僕自身はこの問題に対してもうさほど敏感ではなくて、だからこのシリーズは半分は問題自身の興味深さから扱っているだけで、いきおい形式的で突き放した書き方にならざるをえない。そうなので、こんなこと書いてるのはどうなのかなと思って放置していたのもある。今も思ってるけど。でも、こうした冷たい目で見てはじめて見えるものもあると思う。そしてそれを見てみたい気はある。

子供/大人の対立には、ステレオタイプはあるにせよその中身にはいろいろある。だけど基本的な構造はいっしょだ。というかなるべく基本的な構造のみを問題にしたい。ただ、そこを考えるにあたって実際の事例に即して考えることは必要で、僕のばあいそれが僕が経験したことの中から内容をあてはめて考えることになる(その手続きをつい省略しちゃうんだけども)。

「基本的な構造」とはつまり、大人の自分と子供の自分とは価値観がすこしずつ違って、あるいは何を許容し何が許容できないかについて判断が異なっていて、そうでありながらかつ両者は同じ人物としてくくられる、ということ。子供にとっては、今の自分が許せないことを大人の自分は許してしまう、それどころか問題にさえ感じなくなる、ということに居心地悪さを感じる。しかも、大人にとっては、子供が、上記のような、大人になることへの抵抗を感じていたこと自身もたわいないことだと感じるので、その事自体が輪をかけて子供には容認しがたいことだろう(これは、過去の自分への態度の取り方、という根の深い話)。動物の肉を食べることが許せない人は、人々が動物の肉を食べていることに不満をもつだけでなく、動物の肉を食べていることを彼らが問題に感じておらず、ときに自己正当化さえすることにいらだつ。両者のすれ違いは二重になっている。この例からもわかるように、これは同一の人物における大人と子供のあいだでなくても起こる。子供特有の悩みを「大人は判ってくれない」。

でもどうなのか、大人が子供の悩みを軽んじるとき、それはどんな根拠でそうしているのだろうか。少年の僕が持っていた悩み A は、多くのばあい解決されずに持ち越される。悩みとか解決されないのが大半じゃないか。それはむしろ解消される。ようするに忘れる。薄れていって気にならなくなる。大人になって経験が増えるにつれ、悩み A がとるにたらないことだと「わかる」ようになる。でもそれは平たくいえば、関心事が移ったにすぎない。しょうがない。人間はいま関心を持っていること以外に関心をもつことがむずかしい。関心事は移りゆく。でも、すると、子供のころ重大に感じていたこともまた、いっときの関心事に過ぎないということになるんだろうか。子供の問題意識は深刻だ。それを一時的なきまぐれに過ぎないと言うことは、それがほんとうの問題でないと宣告するに等しい。

そこで、「ほんとうの問題」とは何か、それはあるのかどうか、が問題になってくる。いや、あるのかどうか疑ってかかるんじゃなくて、子供の感じている「ほんとうの問題」のほんとうさをできれば掬い上げてみたい。そのほうが実りがあるから。(つづく)