楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

10時半起床、朝食のあとてろてろテキスト読みなどしながら、しまりなく過ごす。あと『友部正人詩集』をちょっとだけ読み進めたり、つながって谷川俊太郎の「かなしみ」を確認的に読み返して、このあいだ出た『谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を買おうか思案してみる。昼になり、部屋で昨日のカレーライス食べる。洗濯が完了してたのに気づき、取りに行ってベランダに干す。風が強くて難儀した。外に干すべき日じゃなかったのかもしれないけど、晴れてたから。結局、風にたえきれずシャツが2枚落下、エアコンの室外機の水に染められ、二度目の洗濯をすることになった。

外に出ないと調子を崩してくるので、休みでも散歩には出る。しかし暑いので出歩きたくない。ツイッターをみてたら遭遇した「野暮」という言葉に感応して、日本国語大辞典でこれを引くために近くの図書館まで行こうという発想に恵まれた。ことばについて知りたいときに、どういう角度から尋ねればよいか、それにはどんな手段があるか、それを僕は知っている。でも人に対してはさっぱりだ——そんな軽口を浮かべた。「野暮」=「無粋」、対義語は「粋」「通」。江戸でよく使われたようだ。洗練されたふるまいをよしとする文化。でも、洗練された人が洗練されてない人を「野暮だ」って馬鹿にするのは、それこそ野暮じゃなんじゃないか、って意地悪くつっこんでみる。でもさらに考えてみると、野暮というのはむしろ洗練された人同士で通じあう言葉なのであり、洗練された人が洗練されてないふるまいをしたときに、「君それは野暮だよ」って指摘して、仲間うちで方向をととのえさせる役割があったんじゃないか。

夜になってもう一度外出。写真を撮るために。主には、パチンコ屋の電飾を撮るために。風がびゅんびゅん吹いて涼しかったけど結局汗かいた。カメラ持って歩くと、ものを見る目があきらかに変わるというか拡張されるというか、変わるという確かな感触があるんだけど、どのようにを説明するほど明確にみれていない。写真むずかしい。自分の視界で見えているものと、写真に収められているものと、ちがっている。あたりまえか。視界で見えているものは、視界だけでなく匂いとか身体の動きとか記憶の二重写しとか含めて経験されているのだし。自分の撮ったものをざっと見返すと、確かに自分が何を好むか、というのが露骨に出てて勉強になる。勉強になった気がしただけかもしれない。

道路に印されたダイヤ形は、横断歩道の存在を予告する。それを知れば、路上のたんなる模様だったダイヤ形に意味が与えられる。いったん意味が与えられてしまえば、それからは反応せざるを得ない。知ることは世界の中に利用可能な手がかりを増やすことである。でも正確に言えば、利用可能どころか、利用するかどうかを選択する余地もなく、利用するようになる。世界への意味付けが増えること、それが豊かさなのだとしたら、豊かさは不可逆だ。記憶喪失にでもならない限り、ぼくらはどんどん豊かになっていかざるをえない。そんなことを帰り道に考えた。

こうやって書き出して文章にしてみると、なんかいろいろやった気がしてきた。じゃんけんをいきなり仕掛けられたときのように、ぱっと振り返ろうとすると、「テキストをちょっと読み進めただけだ」、たいしてなんもしなかった、そんな感想が出てくるけど、実はそう卑屈になるほどではないのかな。それはそれとしても、時期的な関係で、研究テーマについて悩み中。決まってしまえばやるだけなのだけども。