楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

百合の二枚刃

前の人と復縁したいとは思わないんだよな。いや、思うか思わないかと言うと、思わないではないんだけど、やめておけという理性の声がする。

理想の恋人は、世の中には(こんな私にも)いるんだろうけども。行動面でも心理面でもあまり外に出ない、用もなく街をぶらついたりしない人間なので、見つかる見込みはないでしょうな。

もずく恐怖

一年近く前に別れた恋人のことをよく思い出す。この頃。仕事で忙しくって、癒やされたいのです。前の彼女がじゃなくって、有り体に言って具体的に誰という標的はなくなんらかの彼女が欲しいのです。おうちでぎゅっとしてくれたり、一緒にどこかに出掛けてくれる……、なんだか、この年(20代も暮れてきた)になってそんなこと言い続けてるのもシャレにならない気がしてきた。にわかに。いや、そんなん、まだ結婚しないのか、孫の顔が見たいという常套句を吐く世間の母親父親の脳裏に巣食うものとおんなじ出来合いの価値観が作り出した意識には違いないんだけど、それだけ世間的な価値観を私自身も内面化しつつあるということだね。しかし何によって? 感染経路はさておき、大学の、あの斜に構えることをよしとする大学生たちの空気が、そのような価値観から身を守ってくれていた(という比喩が適切かは不明だが)とは、言ってよさそうだが。

もっと他のことを書こうと思っていたのだがこのまま終わる。「年相応」なんて観念は理屈で導き出せるものではなく、生きていく上でなんとなく身につける呼吸のようなものなんだろうね。

最近働きすぎなんだけど、世界を美しいと感じる心はかえって活性化しているとさえ言えるぐらいで、足元に生える苔やら、コップに注ぐ水やら、不意に目に入る道路標識やらがいちいち麗しく映る。10月、気候が良いという点もあるのでしょうね。それと、仕事内容が技術寄りで、新しいものに触れられているという点にも救われているのだろう。

忙しさに関係あるのかわからない、むしろ季節柄と言うべきのような気がするが、1年近く前に別れた恋人のことを最近ほんとうによく思い出す。答えは簡単で、さみしい。癒やされたい。彼女が欲しい……。しかし、あの人の前では、結局素直にはなりきれなかったのだよな。二人での時間をもちたいという思いと、一人でいる時間は捨てられないという思いとで、ぐるぐるする。

さほど遅くない時刻に目覚めて、けれどせっかくの休日なのに寝倒さないのはもったいないと布団から出ずにいたら、次に目覚めたのは午後だった。昼ごはんのことを考える中で、あるラーメン屋のことを思い出した。1.5駅くらい先の、街道沿いにあるラーメン屋で、一人暮らしを始めて間もなく見つけたが、生活圏からは微妙に外れている(そして特別心惹かれるメニューがあるわけでもない)という理由で足を運ぶ機会がなかった。ただ「いつか行ってみよう」という漠然とした興味が頭の片隅にずっとあって、それを何かの拍子で今日になって思い出したのだ。最低限の部屋の片付けと身支度をしたあと、自転車の空気を入れて(何ヶ月も乗っていなかったからタイヤがゆるゆるだった)、たどり着いてみたら、果たして4月から休業していた。なんとなくそういう予感はあって、だから下調べもせずにただ「見に行く」ようなつもりで来たのかもしれない。

昼食は市立中央図書館に併設のカフェでカレーライスを食べた。

こいのぼりボイトレ

我が内なるミソジニー(我がAndroidスマホ搭載のGoogle日本語入力は「ミソジニー」を変換できないんだな)なるフレーズが飛び交っていた頃は、いまいちなんのことか合点がいってなかったが、このたび同一のフレーズを自ら再発明することにより、その意味を体得することができた。

私は、女性の自立性を是としながら、心の奥では女性が従順であることに心地よさを感ずる心性があることは否定できない。長時間労働を廃し、精神的肉体的ともに健康な生活が保証されるべきだと発言しながら、「頑張ったら頑張っただけ偉い」という価値観から栄養を得ていないといえば嘘になる。

もちろん、だからといって私が語る(いや、そんな語らないけど)理念が無効になるとは思わない。ある人を殺したいと思ったからといって、殺してよいことにはならないのと同じことだ。私が主題にしたいのは、理念と本心との葛藤ではない。対外的に正しい言葉で語ってゆくだけでなく、自らのうちに潜む偏見とも付き合ってゆかなければならないのだなあという、気付きのことだ。