楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

おいしい鬱

信じられないだろうが鬱はおいしいのだ。帰りの電車で、考え事をしていて、考える速度で鬱がぶわっと広がってゆくのを感じた。なぜなら認知療法の言うように、感情は思考につき従う。鬱とは鬱な思考の別名だ。しかし、こう空間的なまでに、鬱が広がってゆくさまをはっきりと観察したのは初めてかもしれない。これは鬱の程度の強さがとか、質が今までと異なったとか、そういうことを意味しない。生活しているうえでたまに会う、いつもの鬱だ。イツモノウツ。むしろ、広がってゆく鬱をいちはやく感知し、それと特定して観察に移った対応の早さの勝利だ。

観察できているかぎりは問題は問題とならない。家について、夕飯を食べて、再び鬱が降りてきた。夕飯食べた後にゆーつな気分になるのは時期に特有の現象だから、もう慣れてしまった。見慣れている。鬱といっても最も軽度のものだろう。誰しもゆーつな気分になることがあるだろう。それだ。確かめたことはないが。降りてきた鬱を感じた。鬱が到来したおいしい鬱だ。自分を突き放して、心の中で発せられる言葉をカギカッコでくくって、「ああー鬱が生じてる」と観察できているかぎり、鬱はたんに味わわれる。あじわれる。味わわれればなんだっておいしい。恐ろしいのはなにかを否認する心だ。「ちょっとこれは耐えられない」と、ベタなレイヤーでおもってしまうと、耐えられなくなる。「これは耐え切れない、と思っているな」と、間接話法で捉えてやれば自分と距離が保てる。受け売りですけどね。

結論がない。べつにハウツーを披露したかったわけではない。鬱がおいしいなんて、それこそ自家中毒じゃないか。しかも自給自足。フグの毒の刺激がたまらんて言ってるみたいな。でも自家中毒も悪くない気がする。自家中毒になって他人の毒にもかかってどんどん変化していけばいい。それが僕の視界をすっきりさせてくれると思っている。

(しかし風呂浴びるとニュートラルな気分にまた戻ったりする。あたりまえだが気分はころころ変わる。前のこと思い出して、過去のことを書きながら今考えたことを織り交ぜたりもして、結局ここには何が提示されているんだろう?)

 

cf.『おいしいうそがいっぱい』石川浩司。聴いたことはないけど。