「食事しながらスマホを見るのは恥ずかしいことだ」という内容のツイートを見た。確かにそうだよなあと思った。
先ほど近所のカレー屋さんで遅い昼食を取っていたら、美人の女将さん(店長の奥さん?)が食器さげる時、20代のサラリーマンに「いい大人なんだから食事してる時くらいスマホしまいなさい。子供が見てますよ、行儀悪い」と言っていて、私も慌ててスマホしまいました。確かになあ。
— たられば (@tarareba722) 2014, 5月 13
これの子供バージョンとして、「食事しながらゲームボーイをする」というのがあると思う。あるいは似たようなのとして食事しながらiPodを聞くとか。さてここまで考えて気づく。なんで食事中にスマホ/ゲーム/iPodは、行儀悪いんだろう。(同類のものを並べると、それらに共通の性質を見つけたくなる) 僕は基本的にどれもやらないから、これは真に迫った問いではない。いや、今日、お昼ご飯を食べながらこんなことを考えていて、気づいたことをA7リングノートに書き留めている僕も、これらと同断なのではないか。食事中にメモるのも行儀がよろしくないのではないか。たぶんそうなるはずだ。僕の中の行儀の概念がそう告げてる。
それにしても、行儀が悪いという概念はよくわからない。行儀が悪いということは、殺人や盗みと同じような領域で悪なのではない。行儀が悪いやつを取り締まるなんてことはしない。あなたが気づけばマナーは変わる、自分でその意味に気づいてこっそりあらためるタイプのものだ。僕はごはんをよく噛んで食べてるけど、それを他人に強制しようとは思わない。よく噛んで食べないからといって他人に迷惑がかかってるわけじゃないからだ。いや、ほんとは、そういうことこそ強制すべきことなのかもしれない。よく噛むことは人生の質を上げる。(かもしれない) 強いてでもやらせるべきなのだ。でも強制することが正当化されるのは、世界をプラスに持ち上げるためよりは、マイナスに落ち込むのを食い止めるためなんだよね。自殺を防ぐのは社会が勝手にやってくれるけど、人が幸せになるのはあまり助けてくれない。やばいことになってから焦り始めるということか。思い当たる。
話がそれた。行儀の悪さを忌むのは、道徳のような強制力のはたらく領域ではなく、どちらかというと、電車の中でイヤホンを音漏れさせないというような、マナーに属するものに近いようだ。ところが行儀の悪さは、イヤホン音漏れのように、人を不快にさせることでは必ずしもないんだな。食事しながらスマホやってる人がいてもいらいらするわけではない。いらいらするとしたら、その原因はまさしくそれが行儀が悪いことだからであり、そうすると行儀が悪いことが忌まれるわけを「それは人をいらいらさせるから」と答えることは循環論になってしまう。要するに行儀が悪いことは、他のなにがゆえでもなく、行儀が悪いゆえに忌まれるのではないか。
でも、行儀が悪いことのなにが悪いのかはやっぱりよくわからない。少なくとも高めの美意識に属することがらではあるよね。ただ、こうまとめると、本は背の順になるように並べなさいって人の本棚に文句つけてるのと同じ袋に入れることになるけど、それは悪意ある扱いかしら。うーん。食事スマホがみっともないの、感覚としてはわかるんだけど。まあ徳とかそういう話なのかもしれませんね。美人の女将さんがキリッと注意してこそきわだつ事柄だと思う。