楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

軽さと重さ

近所の寺で坐禅会をやるというので、朝早く起きて行ってきた。門の前に出ていた案内を読んだときになんとなく読み取っていたとおり、子供が多かった。小学校低学年の子供とその保護者たちと、そして部屋の隅に場違いな青年が一人という構図だった。夏休みの朝のラジオ体操みたいな位置づけだったのかな。

軽さと重さ。僕は軽い人間だ。いや軽い人間になりたい。いや何が書きたいのかわからない。昨日から今日にかけてごちゃごちゃ考えていた。何かがまとまっていたはずだけど、思い出せない。むりに重くある必要はない。むりに重くあろうとすることは、重さへの冒涜でもある。いや冒涜だのなんだのと重さを祭り上げることは、むしろ重さを骨抜きにする。そもそも重さを「重さ」としてひとにぎりに捉えることが事態を耐え切れないほど単純にする。「重さ」なんて缶ジュースのプルタブみたいなものだ。ようするに余剰だ。結果として受け手が受け取るものでしかない。ドラマを見たりノンフィクションを読んだりして、なにかずっしりときた感じがすれば、それが重さだ。それ以上の意味はない。重さ即ち価値だなんて思ってはならない。思うわけがない。

もちろん重いものは人の行動に、ものの感じ方に影響を与えるかもしれない。与えずにいないかもしれない。だから人びとは重いものを重視する。重要なものと考える。むしろそうせざるをえない。だがそれは重いゆえではない。重さは重要なものを見つける指標とはなっても、それ自身が重要なものではない。そんなことを書きたかったんだろうか。そうではない。でも思い出せない。どうせたわいないことだった。そうそう。僕の発する言葉が、ある人から見て、どうしようもなく軽いものだったとしたら。二年くらい前にそんなことを考えていたのを思い出したのだ。きっと、このひとは重要なことを語ってるつもりだ、でもなにも響かない、言葉が救いようもなく軽い、そんなとき、読み手は興ざめする。あるいは苛立つ。パフォーマンスとして、文章作法としてどうというのじゃなく、軽い人間であることが嫌だった。いや、正確にいえば、その「ある人」から見れば僕の言葉はどうしようもなく軽い絵空事にしか映らないだろうという確信が、耐えがたかった。ようするにその人の生活の強度と、自分のそれが、かけ離れすぎていて、茫然とした。生活の強度ってなんだろうねわからない。ただ当時の僕は今よりもずっとだらだら過ごしていたので、まあ、なんか嫌だったんですよねそういう自分が。その人はその人でいろんなものを背負いすぎていて。

何が言いたいのかわからない。結局上記のようなくだらないことを言いたかったのかもしれない。違うかもしれない。ただはっきりしたのは、重いことがべつにいいことだというわけもなく、だからきっと軽薄さもそれ自身がわるいことだというわけもない。軽薄さと軽やかさはしばしば区別をつけがたい。重さと暗さもそうだ。あるいは自由さ。自由さは、世界について何かを知るたびに進んでいく。それは重さや軽さとは無縁だ。その場その場で適切なふるまいを選択できることを自由と呼ぶなら、それは実は選択肢がどんどん狭まっていくことと同時だ。そうでない自由はたんなるアナーキーだ。だから、はじめから重さと軽さは問題でなかった。いや。そんなオチでいいのだろうか。しかし、重さという表現でもって事態を捉えることは、ほんと、ため息が出るほど事態を単純化するなあ。重さ軽さは、味ではなくて匂いのようなものだ。指標にはなるけどそれ自身が中身ではない。