楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

アンセムであやされる

なんかさいきんかゆいんだよね。アトピーで。ストレス要因はないと思うので気候の変化によるものなんだろうけど。

というわけでひさしぶりに日記。ここまでに本の感想の投稿を2個挟んでいるけど、あれはTwitterに書こうとしたものが長くなったのでこちらに掲載したもの(note使いたくない)であり、日記とは言えないので、4月11日以来、約1ヶ月ぶりだ。

昨日は実家に帰っていた。就職して以来、月に1回ぐらい母上から呼ばれるので帰ることにしていて(呼ばれなかったら帰らない──1回だけ、帰ると自分から申し出たことがあるけど)、コロナ禍に入って以降は頻度も落ちたんだけどまだ定期的に帰っている。先日読んだ本と関係あるんだけど私は人と視線を合わせるのが苦手で、その本で学んだ言葉遣いでいうと「まなざし」を向けられることが単純に負担なんだろうなと理解している。他人に、自分という人格が個体認識されること自体が負担なんだと。負担と言ってもピンとこないかもしれないけど、たとえば、腕を肩より上に上げようとすると必ず10kgの下方向の力がかかるような器具を装着しているとしたら、腕を上げたくなくなるじゃないですか。そういうものなのかなと。私もこの「負担」を意識下でとらえているわけではないから、喩え話の域を出ないんだけど。

なぜ、実家に帰った話の中でASD的な〈目が合わない〉症候の話をし始めたのかというと、人と目が合わないんだけど家族と特に合わないからだった。私にとって「目が合わない」といえばまっさきに家族なんですよ。家族と目が合わない一方でコンビニとか飲食店の店員みたいな、今後の人生で二度とかかわりをもつことはないであろう相手に対しては比較的定型発達的な対応ができていて、要するに適宜視線を合わせたり明瞭な受け答えができていたりしたものだったのだが、ここ数日はそうした人々に対しても目が合わないという事象が発生している。自分閉じこもり(そういえば自閉症の言葉の由来って呼んで字の如くでいいんですかね?)傾向が強まっている。

そういえば、このように話があちこちに飛んで前後の脈絡が聞き手にはわからないような話し方も発達障害特有のものだと聞いた。わたしがこの人格でインターネットに文章を書き始めてから17年 (!?) 経っていて、その間「こういう」日記を書くことを主な用途としていて、「こういう」日記は誰にでも書けるけれど普通の人は一般的なマナーの遵守意識が高かったり、整った文章を公開して褒められたいという名誉欲(?)があって書かないのだろうと思っていたけど、普通の人は思ったことを思ったまま書いてもここまでは「支離滅裂」(なのか?)な流れにはならないものなのだろうか。

お昼に本屋に立ち寄ったあと、気が進まないままスパゲティ屋に入った。飲食店を他に見つけられる自信がなかった。いや、視界に飲食店は少なくともあと3つ見えていて、でもどれも気が進まなかったのだ。スパゲティ屋がいちばん「気が進まない」度が低かった。どれもおいしそうだったけど、混雑度とか他の店でも食べられるものを提供していそうとか「今、気分じゃない」とかなんとかで決められないということが極めて頻繁に起こる。今日はそうした自分の行動特性を踏まえた上で、ここで食べなかったら食べないまま電車乗って帰るな(昼飯抜きになり、それを補うためにお菓子をたくさん食べそうだな)、と予見できたので、店に入った。

スパゲティナポリタンはケチャップの味がして、スパゲティのケチャップ和えだと思った。自宅で茹でるパスタと違い麺がもちもちしていて、しかも熱くてなかなか冷めなかった。そうやって観察してみると発見がある。熱いスパゲティをやけどせずに食べるには何度ふうふうしたらいいか。少ない具はどのくらいの頻度で口に運ぶか。工夫が編み出される。自分の好みのしつらえではないけれど、それがいかなる意味でおいしいのかを考えながら食べると、退屈しない。自分の知らない味わいを見つける。

翻って、店に入る気が進まないと言っているときの私は「考えるのが面倒臭い」だったんだなと思う。何も考えなくても楽しめる、勝手に向こうから楽しみを提供してくれるようなもの、でないと嫌だったんだろう。目の前のものに向き合う覚悟をもてば、〈向こうから迎えに来る〉ようなもの以外についてもかかわりを持つことができる。