楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

脂質は思想犯

書くことがいろいろある気がする。書こうと思ったことのすべては書けない、半分も書けない、それが日記の宿命であることは知っているので、全部書けることをあらかじめ期待しないが、書けるだけのことは書いていこう。

言い訳という言葉が嫌いだ、というようなことをBlueskyであるかたが言っているのを見て、不意に思い出した。わたしもある年齢までは「それは言い訳だ」と言われて育ってきたのではなかったか。私だけではないかもしれない。私が子供時代を過ごした20~30年ぐらい前は、あるいは過ごした地域は、いまわたしが過ごしている空間よりも、大人たちが人の言葉や考えに対して聞き分けがなかったような気がする。「気がする」話でしかない。当時のことは実のところあまり覚えていない。ただ思い出すのは、大学4年生のときに自動車教習所に通っていて、ある日運転技術がまるで身についていない私に対して教官(っていう呼び方もなんか権力っぽいですね)から何か問い詰められたときに「言い訳かもしれませんが」と話し出して、しだいに泣きそうになっていたという記憶なんだけど、もうそのときには「言い訳」をすることがその時点で負け確であることを知っていたということだし、なのにそういう仕方でしか応答できない自分が悔しかったということだし、仮説でしかないんだけど私は人生のどこかのタイミングで「言い訳」をすること、人に口答えをすることを封印したのかもしれない、と思った。何か反論や弁解じみたことを言えばそこに「言い訳」というレッテルを貼られて封じられてしまう、それなら口を噤もう、と思ったんじゃないか。重ねてのお断りになるが小さい頃の記憶があまりないので具体的なエピソードが出てくるわけではない。あくまで仮説だ。自分の過去のことに対して仮説を立てるというのは変な感じだけど、そういう手段を講じてまで手を伸ばしたいなにごとかがそこにはある気がする。この「言い訳」という言葉に私のインナーチャイルドがビビッドに反応した感じがあるのだ。

もうひと話題だけ。毎月恒例の精神科に行ってきた。前の日記で〈視線が合わない〉話をしたように、最近は対人関係忌避の傾向が強まっていて、メンタルヘルスにも少し悪影響を感じていたんだけど、その話には触れなかった(ここにはこうして書いているわけなんだけど、でもあくまでこうした〈一般〉のフィルターを通した記述どまりで、具体的なことには触れないだろう)。診察の時間になる前から、このことは話せないだろうなという予感、というかけっこうありありと感じられる心理的抵抗感があった。昼に『「助けて」が言えない』という本の感想を上げたばかりで言うのもなんだけど、パーソナルな悩みは私は主治医にも相談できない。ただ、別の話、近いうちに退職を控えていることは伝えることができた。別にこれは悩みではないんだけど、私の中では比較的パーソナルなことがらに属しており、誰にでも言うわけではないことの一つだった。そういうふうに他人との距離感にはグラデーションがある。診察を終えた後、自分が受付のスタッフと目を合わせているのに気がついた。少し浮上してきたかもなあ。これは引きこもりたい気分のときに素直に引きこもったのが良かったのかなと思う。