楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

まるで蛍光灯

休みがいくらあってもやることが尽きない。とは言っても日の半分ぐらいは寝たりダラダラYouTube見たりして過ごしてたんだけど。でも、数年前の私なら、休日はやはり同じような過ごし方をしていたにもかかわらず、やることないな、もう平日になってもいいのになと出社を夢見るシーンだってあったのに、今は仕事はいいから休みをくれと澄んだ目で思う。週2出勤・週5休みぐらいでいい。そう思えるようになったのはきっと在宅勤務になって以降で、会社に通っていた頃は個人としての生を切り詰めすぎてて私という人間に「やりたいことがある」「やるべきことがある」ということに思い当たることができていなかったように思う。もうちょっと平易な言葉で言い直すと、仕事のことが頭に占める比率が多すぎて自分という人間がどういう好みや強みを持ってるかということを意識する時間が十分確保できていなかった。これ、平易になったのか?

全然違う話をします。自分のTwilogを「人生」で検索したら、月に少なくとも2, 3度はこの語を主題的に用いたツイートを飛ばしていることがわかった。持論だけど、人生というものが主題としてせり出してくるときは人生があまりよい状態にないときだ。それは人生に限らない話か。自分の体のことに思いを馳せるときは体に何らかの不調が出ているときだろうし、いつも使っているシステムの背後で何が起こっているか想像するときは、システムが思い通りに動いてくれないときだろう。

人生を主題的に捉えることから逃走すべきだという考えに私はかなりの程度賛成している。それは第一に、その課題が難しすぎるという認識に立脚している。そして、難しいというところからさらに進んで、人生の意味に関する不可知論みたいなものを私は奉じている。そこにはあんまり根拠はなくて、直観的にそう思うのと、そう思うことで(そう思わなかったときよりも)まずまず楽しく生きられているというプラグマティックな理由による。人生に意味を与えることはできなくて、私たちにできることはその内側で何をするかのみである。より直接的に言えば、生きていることを前提とした上で明日は何を食べようか、少し疲れたから休もうか、仕掛かっている仕事をどう進めたものか、といったことがらを考えることはできる──その一方、この人生生きるべきか死ぬべきかを判断する能力を私たちはもたない。

……変に断言調になってしまってタイミングがとりづらいが、書きたいことは書けた気がするのでこれで終わる。