楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

過去分詞専門店

ごあいさつ(こういう構成になった理由は本文の最後の方を見てね)

こんにちは、皆さん。面白でもお役立ちでもない、ひとかどの人物がやっているわけでもないこのブログを見にきてくれる人がいるのは、とてもかけがえのないことだと思います。私の文章に注意を向けてくださって、いつもありがとうございます。

いつもの本文

断片的なことがら。

育ちの良さ悪さってあるよなあと思う。私は「育ちが悪い」ほうに属していると思っている。なんでも教育のせいにしちゃいかんし、親の育て方が悪いなどとは言いたくないんだけども(実際、両親は自分のことを思ってたくさんのことをしてくれたと思う)、なんだろ、社会階層というのかな、生まれの条件によっておのずと重ねてきた経験の質が異なるみたいなことはあるんだろうな。それによってものの見え方すら根本的に異なるということが起こる。

うーん、「育ちが良い/悪い」という表現はミスリーディングかもしれない。育ちというか「出自」とかのほうがしっくりくるような気もする。むかしとある読書会で、日本では階級とかってあまり意識しないよねという趣旨の発言をしたけど、見えにくくなっているだけで高い/低いの傾斜はあるんだよね。

コミュニケーションのことを最近よく考える。謝罪するときには前置きは不要だ(前置きをつけることはむしろ失礼に当たる)と、ある人から指摘された。言われるまで知らなかった。わたしの言い方があまりにもゴニョゴニョしてて不愉快だったから、もあるかもしれないが。

自分はコミュニケーションが不得手だ、と昔から思い続けてきた。でも最近いろいろ考えたり経験したりしてわかったのは、「コミュニケーション」で一口で括られることがらの中には無数の具体的な規則が入っていて、それは自動車免許の学科試験で聞かれることたちよりもおそらくずっと複雑多様で、しかも多くの人はそれを瞬時に呼び出して遂行できるらしい、ということだ。……と書いてはみたけどどこか引っかかる。それを常識として要求できるのは「育ちが良い」人に限った話、ではあるかもしれない。それともみんな普通にできるのか。学校で習ってもいないのに。私のこんな言い草が、あなたにはどう見えるかを教えてほしい。

わたしの欲望は。わたしは自分を他人に理解してもらいたいんだなーって思った。理解されたいという欲望がある。現在の精神的異常を幼少期の体験に結びつける見方はいつも半信半疑で見ているけど、これに関してはわたしは欲望が満たされなかったんだろうな、と素直に納得する。もちろん自分自身が自己主張が異様に少ない子供だった(そして今も)ことには触れておかなければならない。公平のために。

なんかだいたい自分のせいな気がしてきた。もちろん、自分自身が幼少期からこうであること自体は、自分自身のせいではないのだが。でも、誰からも理解しようとされなかった、などということはない。母親は私のことを理解しようとしてくれた。自分の好きな料理を作ってくれたし、テレビに映る食べ物を自分の好きそうな食べ物だと言い当ててきた。言い当てられたのが決まり悪くて、素直に応じることができなかったけど。

長くなりました。自分の過ごしてきた時間、自分を形成してきた時間を解きほぐす責任は自分が負っているのだと思います。基本的には自分にしかできない仕事。そして、20年近く、なんとなーく私はインターネットで「私」を発信し続けてきたけど、その裏には「自分を理解してほしい」という欲望が張り付いていたんだなと今日わかりました。

だから、たぶん自分が思い続けていたこととはうらはらに、このブログは読者なしには成り立ちません。認めます。最初で最後の読者としての「自分」は意識しつつ。そして、おもしろでもお役立ちでもないこんな文章を読んでくださっている人がいるということ自体、奇跡的なことです。読んでくれているみなさん、ありがとうございます。

(感謝には前置きは不要という今日習ったセオリーをこの文章がフルスイングで裏切ってしまっていることに気づく。でも今の自分はこうするしかない。……と思ったけど、今からでもできることはあると思い、感謝の言葉を冒頭にも追加してみた)