2024年3月に吉祥寺ZINEフェスで入手した『川柳ZINE Poisson』vol.1, 2 から、気になった句をピックアップして感想を書きます。
言うまでもありませんが、句の読み方を規定するものではありません。一つの鑑賞例として見てもらえればと思います。(流通部数が少ないと思うので、とくに強調しておきたい)
Vol.1の収録句
そのカニがたっぷりよそってくれたごはん/松波梨恵
「その」という限定表現が重要である気がする。自分の手の届く範囲、心理的な縄張りの範疇にあるカニ。でも「この」ではないから自分のものではない。他者。
限定表現を消去して、たとえば「沢蟹がたっぷりよそってくれたごはん」にすると全然味わいが変わる。「沢蟹」の必然性を探りたくなる。でもこのカタカナで表記されたカニは、人によってはネコとかカッパとかでもありえたような位置付けの存在で、ただ作者にとってはカニだったということなのだろう。そういう私的な世界におけるかけがえのなさを反映しているのかなと思う。
ごはんをよそうこと、それをしてもらうことの意味は、この句にとっての支点になっているだろう。
「ごはん」と名詞で終わる組み立てになっているのにもたぶん意味がある。あえて教科書的なSOVの語順に書き換えると「そのカニがごはんをたっぷりよそってくれた」になるが、そのとき抜け落ちるものは何か。元の句だと「ごはん」に視線が注がれている。上記の書き換え例のように「こと」を報告している文ではないんだよね。元の句では、主体は「ごはん」に視線を落として、見つめている。そして、ごはんを通して、それをたっぷりとよそってくれたカニのことにも思いを巡らせている。
サムギョプサルの意味が変わった/松波梨恵
言葉の意味が変わるのは言葉の宿命だけど、ものの意味が変わるとはどういうことか。電子メールやLINEが一般化したことで紙の手紙の意味が変わる。洋書を図書館の書棚に置いたとき(文献)と家具店のショールームに置いたとき(インテリア)とで意味が変わる。たとえばそういうことだろうか。
日本でサムギョプサルに出会う場面というのは今のところ限られているように思う。韓国料理屋か、あるいは自宅で作る時か。「サムギョプサル」という言葉自体、韓国語の音写で、まだ日本語に馴染みきっていない感じがする、エキゾチックな響きのある語彙だと思う。たとえば「カレーライスの意味が変わった」だとどういう場面か具体的に考えられそうだけど、サムギョプサルだとまだ十分よくわかっていないものの意味がすでに変わってしまうという途方もなさが感じられる。見たと思ったときにはいなくなっている。
さようならさようなら もっととおくへいきなさい/ 松波/和泉翔
「さようなら」は切れ味の鋭い言葉で、一言ですべてを終わらせる力を持っていると思う。でもこの句はそれを2回重ねることでその重力圏を脱出している。2回言うということは、1回ではさようならし切れないということだから、そのとき「さようなら」はすでに一撃必殺の文句ではない。さらに、「もっととおくへいきなさい」が駄目押しになっていて、これは「さようなら」だけでは言い足りない、心配があるということだろう。「もっと」と言うから十分に「とおく」に行ってもいないということだし、「さようなら」と言いつつ心は対象にぴったりくっついている。
Vol.2の収録句
最後の夏だよ戻っておいで最後だよ/本海万里絵
「最後の夏」ってコマーシャル等でかなり〈こすられた〉表現だと思うんだけど、下五の「最後だよ」の念押しによってその言葉の切迫さみたいなものを賦活している。「最後の夏だよ」は聞き流していても、「最後だよ」ともう一度言われることで、あっ最後なんだ!と気付かされる。「戻っておいで」は、呼びかけられている相手がまだ手の届く範囲、まだ戻ってこれば間に合う場所にいることを意味している。
……ってところまで考えたんだけど、「最後の夏」ってたとえば「高校最後の夏」みたいに特定の時間幅を言うはずで、それが空間的に表象されているのが面白い。「最後の夏」じゃないところから「最後の夏」に移動できるみたいに書かれている。
それでもきみは鯖をつかんで/包國重力
「つかむ」という動詞の選択が的確だと思う。「手がかりをつかむ」みたいに、それじゃなきゃいけないんだという切実さがある。それを逃したら次はないかもしれない、というような。あるいは「雲をつかむ」も、掴んでいるものはハズレなんだけど、でも「つかむ」という意志には確固たるものがある。
鯖は、他の魚もそうだけれど形状とかサイズ感がつかむのに適している感じで(ヌルヌルするけど)、「それでも~つかんで」の切実さとの対比が面白い。思わず無意識につかんでみたくなるのが鯖だと思う。
照り返すあるいは傘を差し掛ける/髙田大介
なんだかとても気になる句でした。外形上から見ると、「照り返す」「傘を差し掛ける」の2つの動詞句をORで結んだ格好になっていて、でも両者の関係は自明ではない。「または」ではなく「あるいは」であるのは音数の都合を超えた必然性があって、「または」だとデジタル的に切り替わりそうな感じなんだけど、「あるいは」は2つの間で逡巡している感じがする。
「傘を差し掛ける」は人間専用の動詞句だけど、「照り返す」は人間が主語になることは基本的になさそうだし、「差し掛ける」と違い自発的動作でもない。傘を差しかけることは親切心の表れだったりするけど、照り返すことは……? このよくわからない「照り返す」を、主語抜きで、上五に持ってきて力強く断言している(しかも、「あるいは」以降で譲歩している)のがなんだか面白い。
色欲を求めて青の洞窟へ/髙田大介
これは一言だけ補足したくて取り上げます。
市販のパスタソースに「青の洞窟」というシリーズがあり、そのキャッチコピーが「欲深い大人の濃厚イタリアン」なんですよね(最初見たときびっくりした)。
この句は、例えば「色欲に駆られて」などとせず、欲を求める、欲望を欲望するという形になっているのが面白いですね。パスタソースでもいいから私に色欲を教えてくれということなのかもしれない。
有罪か無罪かきめる朝マック/西はるか
タマゴサンドとおりあいわるい/西はるか
食べ物と「私」の関係、を考える2句。1句目、朝マックは毎日食べるというよりもちょっと特別な気分で食べるという人が多いのではないか(私は休日の朝に食べることが多いです)。そのとき朝マックはたとえば一日の運命を占う意味を帯びるかもしれない。
あるいは、朝マック自体が有罪/無罪であるということかもしれない。卑近な話だけど、頼み方によってはかなり高カロリーになりますよね(たとえばメガマフィンは単体で693kcal)。
2句目、タマゴサンド(たまごサンドの具、ゆで卵を刻んでマヨネーズと和えたあれは、タマゴとカタカナで書きたくなる)と「私」との折り合いは私的なものであって、人によってはたまごサンドと問題なく折り合いがついている人もいるだろうし、あるいは別のものとの折り合いの悪さを話題にしたくなる人もいるかもしれない。でも、あのシンプルな見た目をしたサンドイッチが案外とっつきづらい、いつかかわりをもてばいいのかわからない、というのはわかる気がする。「おりあいわるい」という言い方は、助詞「が」を省略してちょっとぶっきらぼうな感じ、言いづらかったことを白状しているような感じがする。
生きているからすこし待たせる/ 松波/和泉翔
人を待たせるのは申し訳ないけど、それも私が生きているからなんだぞって、当たり前だけど重要なことに気付かされる。ちょっと待たせるよ、生きているからね。
カスタネットが飛んできて春/松波梨恵
「春」と「カスタネット」の組み合わせの妙もありつつ、飛んでくるのがいい。言われてみれば春の訪れは、春が私たちの世界に割って入ってくる感じがする。カスタネットが飛んできて窓を割るぐらい暴力的に。