きのうの自分の日記の内容を反芻していてひとつだけ言い足りないことがあった。
何かに熱中して、特定の対象のことばかり考えるようになるという体験、それは数学を勉強しているときに時折経験したものであり、同じことが川柳の作句中*1にも起こった。という話。そこで、私は大学で哲学を専攻していたという話をセットでしたが、哲学に「熱中」することはなかったのかというと、これは「なかった」。つまらなかったという意味ではない。私にとって哲学をするという活動のコアは、考えたことを書く・考えながら書く、という行為だった*2。その行為は、問題に取り憑かれるというよりは、一瞬見えた光のようなものを忘れないうちに書きとめることの繰り返しで、自分でしっかりホールドしていないとすぐに手を離れていってしまうものを扱う心地だった。哲学は、こちらから迎えに行く必要のある存在で、付き合うのに努力を必要とする存在だった。
月1の精神科に行ってきました。なんか心の病院というよりは健康相談室みたいになりつつある。いいのか。でも、もともと自分がこの場所に足を運ぶことにした理由は多岐に亘り複雑にからみあっており、もとより何かを「処方」してもらうのが目的ではなかった。いや、もともとはADHDの薬物療法を求めていたんだっけ。でも「障害」って目に見えるハードルを一つ取り除けば消える性質のものではないことはわかってきたし、自分がここまで生きてくる中でこじらせたものも色々あるだろう。それらを一つ一つほぐして取り扱っていくことなしには事態はきっと改善しないし、それは裏側から見れば漸進的な改善が可能だってことでもある。