楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

帳消しコピュラ

2つ前の日記の続きです。前回はなんとなくもったいぶった文体になってしまったけど、全体として話が緊密につながっている形に無理にしなくてもいいなと思ったので(それは日記のいいところだと思う)、今日はこないだよりラフに書きたい。

https://elmman.hateblo.jp/entry/2023/04/03/224215

 

「休憩」を一つのカテゴリとして考えるとき、「これは休憩と呼ぶのにふさわしいだろうか」という反省が促される。

「休憩」を開始するとき、具体的には次のようなことをしている。

などなど。週に複数回やっているであろう「休憩」を思いつく限り挙げてみたが、たまにやるものや今思い出せなかったものを含めるともっとあるだろう。

強調したいのは「休憩」の具体的な中身が多様であるということと同時に、そもそも真に「休憩」の名に値するものがこの中にどれだけあるかを問う余地がある、ということだ。

最初の3つはほとんど誰に聞いても休憩だと答えると思う。「休んでいる」という表現にふさわしい。しかし残りの項目は、休んでいるというより「活動している」と表現すべきではないか。

この問いに一意的な答えを与えるのは難しい。またそれはここでの関心でもない。重要なのは、事実としてこれらを「休憩」に数えるのに私はそれほど違和感がないという点*1。そして、それらを大別すると〈まさしく体を休めている「休憩」〉と、〈頭や体を動かしているが、それが気晴らしの機能を果たしている「休憩」〉の2種類が見出せるという点だ。

なんだかけっきょく話が一歩ずつしか進まないようだ。今までの話とは直接つながらないのだが、じゃあ「ゲームをする」みたいな、何かを能動的にしているようなことを「休憩」と呼ぶことにするならば、今度は例えば〈Nintendo Switchで『ワリオランド3』をプレイする〉と〈家の周りを散歩する〉が同じ箱に入ることになる。

同じ箱に入ると、相互の交換可能性を考えられるようになる。10分休憩しようと思ったとき、ワリオランド3をやるのか、散歩するのか選べるということだ。そして比較できるということは優劣がつけられるということでもある。優劣をつけるには観点を選び出すことが必要である。一日のうちの運動量を増やしたいならば、ゲームではなく散歩を選ぶ理由がある。また、ワリオランド3は面白いが、漫然とプレイしていると同じマップを何度も往復させられることになってイライラの種になるから、疲れがたまっているときはむしろゲームを遠ざけるのがよさそうだ。

書き出してみたらそんなに面白くない話に思えてきた。カテゴリ分けすることで、同じカテゴリに入れたもの同士が比較可能・交換可能なものとして組織化される。また、カテゴリの成員がそのカテゴリに分類されるのが妥当かどうか、その成員の性質に対する反省の機会にもなる。そういうことに気付いて、面白いなと思ったのだった。

*1:ぶっちゃけ、勤務時間中に職務以外のことをしていればほぼすべて「休憩」になると思う。そしてそれは「活動しているか休んでいるか」という次元とはまた別の「休憩」の様相だろう