楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

割り箸呑気

文章をちゃんと読んでないことが多いんですよね。部分部分だけ拾って意味を読み取ろうとしてしまう。

↑いまのかたまりであれば、冒頭の「文章を」まで読んで「多い」に飛んで、あとざーっと飛ばして最後あたりの「意味を読み取ろう」あたりに着地する。そんで、「あれっ……どういう意味かな」とひとりで目を伏せる。

要するに読めてないんですよね。内容が頭に入ってない。しかも読めてないのをその場で自覚してる。だけどなかなかやめられない。

速く読みたいんですよね。水を注いだコップが置いてあったらパッと取って一気に飲んで次の水に移りたい。情報が氾濫する現代社会では、すばやく処理するスキルが求められてるといわれます。誰もが情報を発信できるようになった今、インターネットには重要な情報もあれば退屈な情報もある。

どうやら自分の見てるものが基本的に「退屈な情報」に属すると勘違いしているようだ。あるいは「これ、退屈な情報なのでは…?」という疑いを、あまりにも早くかけてしまう。(何を見るかは自分で取捨選択しているのに、ふしぎな結果だ。) 僕は急いでいる。退屈な情報にかまけて、重要な情報(古典文献とか…)に取り組む時間が喰われてはこまる。そういう意識は、正直に申して、あるな。

そういいつつもツイッターとか見ちゃうわけだ。そのうえ古典文献に取り組む時間が確保できてるわけでもない。行動のフレームを変える(ネットを見るのをやめる)のが難しいなら、せいぜいツイッターを真剣に読んだほうがいくぶん有意義だ。そうすればなにがほんとうにくだらなくて、なにが意味あるものなのか、わかるだろうし。

酢味噌鉄棒和え

2日連続で飲み会があって、いろんな人と顔を合わせるわけですけど、それはそれで楽しいし貴重な時間でもあるし結構酔っ払ってしまうのですけども、会が終わって最終的に一人になったときにはじめて満月が目に入る。「改めていいな」って思えるのはいつも「一人っていいな」のときであって、改めて「人といるっていいな」って思ったことはない。まあ単に改めないからかもしれないが。言ってみれば、一人のよさには〈あらためて性〉が備わってるってことなのか。

ビタミン階級

就職活動はお休み中で(行き詰まりともいう)、人間ヒマになるといろんな周りのことに気づける余裕ができますね。というか、ヒマじゃなくてもいいんで、いろんな周りのことに気づけるためには、心に余裕をもつとよい、ということで。具体的には散歩してて猫を見て、鳴かなかった猫の鳴き声と鳴かなかった僕の鳴きまねとを想像して、猫の声の音域より僕の音域のほうが広い?――僕の地声の低さで猫は鳴かない、というとこまで関心の鎖をつなげる、といったこと。

雨の日は長靴を履きます。作業服なんか売ってるような店で買った、長靴らしい長靴。周りの人に言わせると、お魚屋さんに見えるらしいです。(そっか!世の中にはおしゃれな長靴、長靴に見えない長靴というものがあるのか)

でも不思議なのは、雨の日に長靴を履かない人がいるということ。しかも多数派?というくらいいるということ。そりゃ長靴は暑いよ。通気性も悪いし。でもスニーカーが浸水して靴下までずぶ濡れる不快感を考えれば(それから私は肌が敏感なので雨に濡れるとかゆくなるのである)、長靴を履くことは僕にとってある克服と勝利を意味しているのです。

というか雨が降ってるなら長靴履くのは当たり前じゃねえ? むしろ唯一の正しい選択肢である、と思うのですが。ここで「正しい」ということのこころは、雨が降ったら雨を防ぐ措置を講ずるのが当然なのだとしたら、それは上半身だけでなく、足下にもその当然さが適用されてしかるべきではないのか、と。

この考え方自体は正しいと思っている。雨が降ってるなら長靴を履くのが唯一正しい選択だ、と。でもその考えが有効だったり人の行動を左右する力をもつのは、そもそも正しさってのが問題になる場面においてだけだ。言い換えると、「正しい」ってのは唯一絶対の裁定者なんかではなく、いろいろある価値のうちの一つだ、ってこと。(今日はこれが言いたかった)

さっき、「長靴を履く」ことを正当化する(=正しいとする)ために、雨の日に雨から身を守ることの正当性にうったえた。雨の日には傘を差して出かけるのが正しいふるまいだ。なぜなら、全身濡れたままで電車に乗ったり喫茶店に入っりしたら誰かが迷惑するからだ。迷惑するのはなぜかというと、基本的にはみんな濡れるのがやだからだ。自分の体とか、かばんとか、店のイスやテーブルがぬれるのがいやだから。その点、靴は濡れてもそうした迷惑をかける心配はまずない。濡れた靴が触れるのは地面であり、床だ。地面や床は濡れてもいい汚れてもいいとされてるから、濡れた靴で歩いてもかまわない。

あれ、じゃあ、「迷惑だから」という線で行くと、靴を濡らすのはべつに本人が気持ち悪いかどうかという問題でしかないことになる。確かにそうだ。僕だって「人に迷惑がかかるから、長靴を履きなさい」って誰かに指導したりはしない。長靴を履く理由を説明するときは、いつも「自分が気持ち悪いから」と言う。

じゃあ各々が勝手にすればいいことじゃないだろうか。いや、僕もそうだと思う。だから長靴を履くことは、モラルやマナーに属する問題ではない。それでも長靴を履くのが、なんつーか、こういっていいならば、大人ではないだろうか? だって、雨の日に靴の中びっちょびちょにして出勤するより、自分の足をきっちり雨から守って出勤するほうが、なんか、「大人」だって感じがしないだろうか。私の思う大人とはそういうやつだ。それでお魚屋さんみたいな長靴を履く必要はないけど、なんかほかのスマートな仕方で靴の中ぐっちょぐちょになるのを回避していてほしい。だって、靴下が濡れて気持ち悪いまま職場のパソコンに向かってExcelで作業して、そのうち自然に乾くのを待つとか、大人になっても俺ってそんなんなのだろうか……!

という意味で雨の日は長靴を履く(かそれに類する処置をする)のにはもっともな理由があると思うのですがどうでしょうか。そうやって意味を広げてみるとやってる人は実はけっこういる気がした。だいいちスーツにあわせる革靴って水に強いし。

ミサンガ仏頂面

月曜から土曜までbotになっていたのでそのことについて書いとかなきゃいけないですね。(?) Twitterで投稿するときに「これは投稿すべきかそうでないか」と迷うのがめんどくさくてやだなーとそのころ思っていたので、投稿するかどうかをその場の自分が決めない仕組みでやればいいのかと考えたわけです。それで、たまにある朝のゆううつにまかせて可決させちゃった。もうひとつ先に思いついた案として、「投稿ボタンを押したところでサイコロが振られる。奇数目だったらそのまま投稿され、偶数目だったら破棄される」てな仕組みを作りたいとも思ったのですが技術力がないのであきらめました。投稿するかどうかを自分の手から離すという趣旨はわかるが後ろ向きすぎるな。

もちろん、発言がTwitter上に投稿されるときの最終的な投稿ボタンを押すのが機械だと言うだけで、ツイートの内容は僕がその日に新しく考えていましたし、さらに言えばtwittbotのシステムにツイートを登録するときなんかに「これは口に出すべきだろうか」という考慮ははたらいてたわけですが、それは別にいいのです。結局わかったのは、botであるということは僕自身はTwitter上に存在してないってことでした。投稿されるのがすべて新しいtweetだとしても、結局Twitterのルールでは「投稿しているときのみその人は存在する」ということなんですねえ。Twitterのなかでプレゼンスを主張しなかったかわりにネタ職人的にはなれた気がします。職人というとおおげさですが。1日に投稿できる上限も決まっていたし、ツイートはそれが投稿される前日の夜にまとめて蓄積していたので、自分が単に何を言いたいのか、何を言うべきかって点に集中できたかもしれない。

もちろんその場で言いたいことがらってのもあって、そうした言いたい気持ちは飲み込まなきゃいけない。でもそれって「おなかすいた」とか「ねむい」とかそういうたぐいのもので、たしかにそういうことを言い続けるのも大事かなとは思うのですが、でも単に「言いたいことをその場で言う」こと、「言いたいことをいつでも言いたくなったときに言う」こと、つまり言いたいという単なる欲望を満たすこと自体はそんなに重要じゃないかなとも思いました。それよりは、言いたいことを言うべき時に言うこと、今しか言えないことをのがさず言うこと、そういう構えでいたほうがイイんじゃないかな、とこれは今思い返していて思いました。

潮汐互換性

外国語を学ぶことは、外来語のもつ「異国の響き」「エキゾチックな響き」をなくしていくことだ。一面では。クーペだのコンシェルジュだのツベルクリンだのツェルトだのトーチカだのグラスノスチだの、外来語にはそれぞれ独特の雰囲気がある。世界地図を眺めているとノヴァヤゼムリャという島があるが、これを見つけたときはたいそう興奮したものだ。だって、ノヴァヤゼムリャだぜ。でもすこしばかりロシア語を学んで、おおまかな意味や、スペルや(原語により近い)発音が推定できるようになると、「ああそういうことね」と腑に落ちてしまうと、そこで僕はノヴァヤゼムリャというよりはНовая Земляを自分のものにしてしまう。もちろん一面ではそれは喜びだ。その気になれば僕はノヴァヤゼムリャを格変化させたり、複数形にしたりすることができる。今やノヴァヤゼムリャは看板に書かれている、修正不可能な、鑑賞するためのものではない。

だけどそこが悲しいところでもある。鑑賞者でいたほうが楽しいこともあるわけだ。端的に言って今や僕は「ノヴァヤゼムリャ」にときめかない。……と言い切ると嘘になる。だけど以前の「なんかすごそう!」という期待に似た感情は確かに薄れた。一般に、何かを知ることは、それを自分のものとすることだ。そして、自分のものではなくむしろ他なるものであるということがそれに対するエキゾチックなあこがれを喚起するのも、事実だろう。難しそうな芸術作品を見ていて、あとで「この作品はこういうねらいで……」と解題されてみると、「ああ、そんなこと……」とがっかりすることがある。そういうときって、作者自身が作品の魅力を理解できていないのか、僕の鑑賞の仕方がつまらないのか、まあ後者でしょうね。道ですれ違う女の子をどれもかわいいかわいいと認定しているみたいな。同人要素があればなんでも掛け合わせちゃう人のような。つまらんつうか、その作品じゃなきゃ成り立たない見方ではないって意味で。まあそれはそれとして、でもキリル文字が並んでるのを見てわくわくする感覚はとてもいいものだし、学んでいくことでそのわくわくが薄れてしまうのは確かに惜しい。惜しいけどだから何も知らない学ばない!というのは確かにどこかおかしいのだ。この「惜しさ」と「おかしさ」が並んでいたら、僕は「おかしさ」をとってしまうタイプだ。

公開魚類

意味の薄さ、というものに気づくようになったようだ。文章を書いているとき、この日記や、ツイッターの発言や、秘密のノートや、とにかく自分で内容を考えて自分で書く、というものを書いているとき。おや、ここは意味が薄いぞ、と思ったりする。

端的に言って意味の厚いものとは文章の中核となるアイデア、意味の薄いものとはそれに付随する説明だ。文章を書こう、何かを言葉にしようと思うときには、それを言葉で表明したい中核的なアイデアがある。ある新しい考えを考えついて、新しい何事かを発見して、それを言葉にしたいと思うようになる。

でも僕などは、アイデアを思いついた背景も書きたいし、アイデアを支える根拠も示しておきたいし、なんなら反対意見に対するあらかじめの弁解だって用意する気だってある。そういうものが無駄だとは思わない。だって答えを示すのと、その答えにたどり着く道筋を示すのと、どっちが親切かっていったら後者だろ。だけど、思いついた背景はともかく、根拠とか反論に対する反論といったものは、アイデアが生じた時点では与えられていない。つまりアイデアは、それを支える言論とともに思いつかれる訳ではない。書く段階になってはじめて根拠を考える必要にせまられる(根拠を書こうという人は)。

だけどそんな根拠はどうせその場で思いついたものだから、うーん、やっぱり見ていてどうしても軽い。頭の中の引き出しを探して、なんとか合うものを見つけてくる。きっとこの分野は読書量がものを言うのだろう。僕は読書量が少ないので引き出しが少ない。あり合わせのもので組み立てた「意見」は、それを支える屋台骨がとても弱い。見た目にもみすぼらしい。もちろん今日は自分の能力の低さを嘆きたいのではない。

中核的なアイデアは意味が厚い。これって一般的にそうだという話ではないし、なんなら文字通りの話でもない。でも、けっこう動かしがたい重さをそいつが持ってるのは確かだ。つまりそれを根拠づける仕方はいろいろありえても、もともと言いたかったそいつを別のものに差し替えるということは考えつきそうもない。もともと言いたかったそのことが、もしかしたら間違ってるかもしれないと気づくかもしれない。よくあることだ。でも、なんとかしてその言いたかったことを残せないかと僕なんかはむなしい努力をする。そして、間違ってるっぽいと思いながらも、自分はきっと間違ってると言いながら間違ってることを言ったりもする。

意味の厚さと薄さ。できれば僕は僕の発言に含まれる言葉のなるべく多くを、意味の厚いものにしていきたい。それは読者にとって僕の発言が有意義かどうかとは直接関係がない。きっと確信が欲しいのだろう。意味の厚い言葉は、経験と必然性に裏付けられている。それはかりに間違っていたとしても、意味のある言葉だ(本人にとっては)。

そう思う一方で、意味の薄い言葉が中核的なアイデアに付け加わるとき、自分の世界がひとつ塗り替えられていく感触もある。中核的なアイデアはひとつのこだわりだ。そのアイデアは思いついた後も、食事をしたり買い物に出たりした後も、頭にとどまり続ける。同じアイデアが頭にとどまっていることは、世界が停滞していることでもある。そのときにアイデアをアイデアのまま吐き出すのもいい。言葉にされたことは過去になる。でも、アイデアに余計な一言を足すのも、悪くないと思う。見栄えとしては美しくないかもしれない。でも、自分のこだわりのアイデアに、その場の根拠付けのような薄い言葉であっても関連させて続けてみると、そのアイデア自身の現れ方も変わる。まあ驚くべきことではない。新しく考えつかれたことに囲まれて、すでにアイデア自身が主題ではなくなっていく。僕が文章を書くとき、考えをそのつどアウトプットしないまま、いろんな考えが頭の中で飽和状態になってから書き始めたりする。そんなとき、いろんなことを思い出し、あるいは思いついたりして、もとのアイデアをゆったりと提示するどころではなくなる。出てきたものを見るとどれが主題だかわからなくなっている。ほんとのことをいえば、アイデアなんて重要じゃないと感じているのだ。もとのアイデアが、「言いたい」という気持ちを引き出すものであることは変わりない。でも、べつにもとのアイデアを中心に展開させて書きたいという気持ちはあまりないんだろう。アイデアの正しさに確信をもっているわけではないからだ。それはむしろ、多くの場合間違っているんだから、ただ言いたいことを言っただけで僕は満足して、関連したことを新しく考え始めてしまう。いや、飽和状態になってから書くのがいけないんだろうな。