楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

帰省してきた

正確には親の帰省についていった。つうか。いや。正確には生まれた場所ではあるので正確にはやはり帰省なのか。

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(※写真はコアップガラナですが帰省先は北海道ではありません)、って。そんな、んな事を書こうと数日前から構想していたんだ。くだらない。具現化してみると、あらためて、何が言いたいのかわからない。別に言いたいことは はじめからなかった。なんか面白いだろう、画像とことばのハーモニーが響きが心地よいだろうと期待した。別にべつにそんなことはなかった。それでも構想したとおりに、頭にあった像と一字一句たがわず出力しました。頭にあったことをそのまま出力するのはしあわせなんだろうか。ははっ。伝えたいことがあるとして、それは理念的内容でもことばの響きあいでもいいけど、伝えたいことがなにかあって、それを読み手に伝わるように、意図したとおり相手に了解されるように提示したいのなら、頭にあったことをそのまま出力するだけではたいがい不十分だ。ひとりよがりだ。つーか言語の間主観性。それなのに推敲する気も起きなかったのは、つまり、伝えたいことがそれがなかった、ってそう了解するのがいいのかもしれないねえ。いや。でも。なにか共有したいことがあったとして、形式を冷蔵庫にいれて放置しているまに さめてしまったんだ。コアップガラナは前に飲んだときよりガラナっぽくなかった。

人のインターネットとか見てるとねえ たまに、自分よりはるかに真摯に生きているような そんな像が浮かんでびびる。べつに真摯さが唯一の美徳だとも、自分が真摯さを目指しているとも、いわないけど。いや……。でも、自分がこの自分でこれでいいのか、と、突きつけてくる力が、そこにはある。なんらかの対応を迫る力が。よっしゃ自分も真摯になろうと心あらためるのも対応だし、それでも別に自分は、と見て見ぬふりするのも対応だ。対応しないことがひとつの対応として収容されてしまうというきびしい場でもある。道に置かれた自動販売機に一瞥もくれないことが、自動販売機をシカトしたことになりましょうか。しかしある人(たち)のあるありようは、やはり、なんらかの対応を迫る、無対応を許さないたぐいのなにごとかであるように思う。それは、やっぱり、そこで一瞥をくれてしまったゆえに それとかかずらうはめになったという、わたしの責任なんでしょうか。

べつにいいけど。ただ暮らしてて、暮らしてるだけなのに、「おまえの生き方それでええのか」と問いただしてくる、そういうものごとのありかたが、いまでもありますよねという話だ。問いただしてくるかのように感じているのは自分だ。つまり「そういうものごとのありかた」は、裏返せば、そういう自分のありかただ。そのひっかかりの機会をもち続けるかぎりは、大人と対比されるところの子供であるのだろう。