楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

かつて呵責

おしごといそがしくてあたまがわるくなってきた。本当に。そうそう、こうなるんだよな。忙殺とは時間がとられるという以上に、時間の中をよく生きるためのリソースがとられるということでもある。そして忙殺とは単なる多忙ではなく、多忙の中で当人がうんざりする時間を重ねてこそ実現される。

自分に近すぎる言葉は川柳にしづらいという話があって、「近すぎる」というのはアイデンティティに食い込んでいたり、少しばかり詳しくなりすぎているみたいな意味だと了解してるんだけど、私だったら「対偶」とかは使いづらいかもしれない。あるいは「存在論」とか。

あるとき「シスターフッド」という言葉を使った川柳ができたことがあって、自分的にはまずまず出来が良かったんだけど、どこにも出さなかった。まずまず出来が良い(と少なくとも自負する)ものができたのは、その言葉が自分に近くなかったからに違いない。どこにも出さなかったのは、この言葉を川柳にすることが、言葉の簒奪のようなものに加担しないだろうかと心配になったからだ。(私がしているような流儀での)川柳は、言葉に足を引っ掛けて転ばせるようなところがあり、そうしていい相手とそうすべきでない相手があるだろうと思ったわけだ。

こういうとき、私は川柳のことよりも現実の社会のことを優先している。それらは私の中で比較可能だ。そして多くの場合は現実の社会のことのほうが優先されるだろうとも思う。これは不道徳なことを書かないという意味とは少し違う。不道徳な句は、あまり書いたことがない気がするが、優れたものができたらどこかに出すかもしれない、と思う。

ここまでの話だけで急いで結論を出すなら、言葉でもって言葉を棄損する(それもぶざまな仕方で)ということに自分の中でゴーサインが出ないのかもしれない。単に不道徳なことを書くとき、世の中の規範意識はほんの少し棄損されるかもしれないが、言葉が棄損されるわけではない。 わかんないけど。

ラジオを聞きながら「自分ごと」という言葉を使った川柳はできないだろうかと着想して、今書いたみたいなことを思い出したのだった。「自分ごと」は、面白がりようのある言葉だと思うし、「言葉の簒奪」みたいな危険に比較的曝されていない言葉だとも思う。でも、もうしばらくそっとしておきたい気持ちがある。まだ熟していないという感覚がある。